甘い玉子焼きと、八年目の告白 〜夫の胸の内〜
甘い。
正直に言えば、最初に口に入れた瞬間、そう思った。
だが同時に、胸の奥がじわりと温かくなった。
――この味だ。
懐かしい。あの頃と同じだ。
まだ彼女が使用人としてこの家にいた頃。ぎこちなく、それでも一生懸命に差し出してくれた玉子焼き。
甘かった。
自分は「甘いな」とだけ言った。
本当は、悪くなかった。むしろ嬉しかったのに。
あの頃の自分は、何に対しても余裕がなかった。仕事、立場、責任。弱みを見せることが負けのように感じていた。
「美味しい」の一言が、なぜ言えなかったのか。
今日、弁当箱を開けたとき。
整然と並ぶおかずの向こうに、朝四時半の彼女の姿が見えた気がした。
眠気をこらえながら、真剣な顔で卵を巻いていた姿。
自分のために。
娘のために。
ただそれだけの理由で、時間を削ってくれた。
甘い玉子焼きは、味以上のものを含んでいた。
気遣い。
遠慮。
そして、ずっと変わらない想い。
八年経っても、彼女は変わらない。
自分はどうだろうか。
ちゃんと、言葉にしているだろうか。
「美味かった」
たったそれだけの言葉なのに、言うまでに八年かかった。
情けない。
だが、遅くはないはずだ。
今日、弁当を食べながら思った。
この甘さは、嫌いではない。
むしろ――守りたい味だ。
仕事でどれだけ張り詰めていても、家に帰ればこの味がある。
自分の帰る場所の味。
娘が「最高だったね」と笑い、妻が少し照れながら微笑む。
その中心にあるのが、あの甘い玉子焼きだ。
クールでいることは、楽だ。
感情を抑え、淡々としていればいい。
だがそれでは、伝わらない。
彼女が言った通りだ。
“しっかり言葉に出さないと伝わりませんよ”
その通りだ。
だから決めた。
美味いと思ったら、美味いと言う。
また食べたいと思ったら、そう言う。
甘い玉子焼きも、甘い時間も。
自分から求めてもいいのだと、今日やっと思えた。
――帰ったら、また頼もう。
「また作ってくれ」と。
あの甘い玉子焼きを。
今度は、迷わずに。




