甘い玉子焼きと、八年目の告白③
正午。
普段なら外で会食か、秘書が手配した老舗の仕出し弁当が机に並ぶ時間だ。
だが今日は違う。
重厚なデスクの上に置かれたのは、黒いシンプルな弁当箱。
夫はネクタイをわずかに緩め、椅子に深く腰掛ける。
しばらく、その蓋を見つめた。
「……」
ふっと、小さく息を吐く。
蓋を開けると、整然と並ぶおかず。ハンバーグ、唐揚げ、彩りの野菜。そして、端にきれいに収まる黄色い玉子焼き。
思わず、言葉がこぼれた。
「いただきます」
自然だった。
誰もいない部屋で、しかし確かに。
箸を取る。
一瞬迷い――
最初に伸びたのは、玉子焼きだった。
ぱくり、と口に運ぶ。
広がる甘さ。
「……甘いな」
だが、眉はひそめない。
むしろ、ゆっくりと噛み締める。
ふわりとした食感。
砂糖の優しい甘さ。
――懐かしい。
記憶が、静かに蘇る。
まだ結婚前。
彼女が自分の家で働いていた頃。
休日の朝、恐る恐る差し出された小さな皿。
『……玉子焼き、作ってみました』
あのときも、甘かった。
『どうでしょうか』
期待と不安が混ざった瞳。
自分は、淡々と言った。
『甘いな』
それだけだった。
本当は、悪くないと思っていたのに。
――素直じゃなかったな。
夫は小さく息をつく。
「……うまい」
誰に聞かせるでもなく。
箸が進む。
ハンバーグはジューシーで、唐揚げは衣が軽い。野菜もきちんと下処理されている。
「朝四時半、か」
思い出す。
眠そうな顔ひとつせず、真剣な横顔。
『初めてだもの。気合い入るわよ』
口元が、わずかに緩む。
あっという間に、残りは少し。
そして最後に残したのも、玉子焼きだった。
「……締めはこれだな」
もう一切れをゆっくりと味わう。
やはり甘い。
だが、それがいい。
箸を置く。
「ごちそうさま」
静かな部屋に、はっきりと響いた。
弁当箱を閉じながら思う。
帰ったら報告しよう。
美味かった、と。
また作ってほしい、と。
甘い玉子焼きも。
今度は、ちゃんと言葉にしよう。
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夕方。
タワーマンションのエントランス。
車が滑り込み、ドアが開く。
「お疲れ様でございました」
運転手の声に軽く頷き、夫は降りる。
片手には、白い箱。
エレベーターを降り、玄関のドアが開いた瞬間――
「パパーっ!」
結が飛び込んでくる。
夫は自然な動作で受け止めた。
「ただいま」
「おかえり!」
リビングから妻が顔を出す。
「おかえりなさい」
「ああ」
結がキラキラした目で見上げる。
「ねえねえ! 今日ね!」
「ママのお弁当、最高だったね、と言いそうだな」
結が一瞬固まる。
「なんでわかったの!?」
「顔に書いてある」
「えー!」
妻がくすりと笑う。
「どうでした?」
夫は靴を脱ぎ、ゆっくりとリビングに入る。
「美味かった」
短いが、はっきりと。
妻の表情がやわらぐ。
「本当?」
「ああ。特に」
間。
「玉子焼き」
結が両手を挙げる。
「やっぱりー!」
「甘かったが」
「が?」
「それが良かった」
妻の目が少し潤む。
「……ありがとう」
夫は持っていた箱を差し出す。
「帰りに寄った」
「え?」
「ケーキ?」
結が跳ねる。
「わあああ!」
「今日は祝いだ」
「何の?」
「初めての弁当成功の祝い」
「大げさですよ」
「大げさではない」
夫は淡々と言う。
「結、手を洗ってこい」
「はーい!」
結が走っていく。
夫は妻に視線を向ける。
「帰ったら報告しようと思っていた」
「うん」
「本当に美味かった。……また作ってほしい」
妻が静かに微笑む。
「甘い玉子焼きも?」
「ああ」
「あなた、甘いの苦手じゃなかった?」
「昔の話だ」
「ふふ」
「味覚は変わる」
「本当に?」
「……努力する」
妻が笑う。
「正直に言えばいいのに」
「正直だ」
そこへ結が戻ってくる。
「ケーキ食べよ! ママにありがとう言うんでしょ?」
「そうだな」
三人でテーブルを囲む。
ケーキを切り分けながら、夫が言う。
「結」
「なあに?」
「ママに、何と言うんだ」
結は胸を張る。
「ママ! お弁当、最高だった! また作って!」
妻が笑う。
「はいはい」
夫も、静かに続ける。
「俺からも頼む」
「え?」
「また、作ってくれ」
真っ直ぐな視線。
「甘い玉子焼きも」
妻は少し照れながら頷く。
「……はい」
結がケーキを頬張る。
「今日、いい日だね!」
「そうだな」
夫はフォークを手に取り、小さく息をつく。
甘い玉子焼き。
甘いケーキ。
そして、甘い時間。
――悪くない。
いや。
「……悪くないどころか」
「パパ、なに?」
「何でもない」
けれどその横顔は、いつもよりずっと柔らかかった。




