甘い玉子焼きと、八年目の告白②
午前四時半。
キッチンに、やわらかな灯りがともる。
静まり返った室内で、妻はそっとエプロンの紐を結び直した。
「……よし」
小さく気合いを入れる。
冷蔵庫を開け、前夜に下ごしらえしておいた材料を取り出す。
「ハンバーグ、唐揚げ、ブロッコリー……あ、トマト洗っておかないと」
独り言が増えるのは、少し緊張している証拠だった。
結の分と、そして――夫の分。
「初めてなのよね。あなたのお弁当」
フライパンに油をひき、ハンバーグを焼く。じゅうっと香ばしい音が広がる。
「焦げないでよ……今日は失敗できないんだから」
裏返し、蓋をする。
隣では唐揚げ用の油が静かに温度を上げている。
そして、卵を三つ、割る。
カシャ、と小気味いい音。
砂糖を入れる手が、ほんの少しだけ迷う。
「……今日は、しっかり甘く」
箸で混ぜながら、昨夜の言葉を思い出す。
『お前の甘い玉子焼きが食べたい』
自然と頬がゆるむ。
「素直じゃなかったくせに」
くるくると卵を巻く。ふんわりと厚みのある、黄色い層。
「久しぶりね」
慎重に巻き終え、形を整える。
ちょうどそのとき、背後で足音がした。
「……早いな」
低い声。
妻が振り返る。
「え?」
そこには、寝起きの夫が立っていた。シャツのボタンを上まで留めず、少しラフな姿。
「あなた? まだ五時前よ?」
「目が覚めた」
「もう少し寝ていていいのに」
「気になった」
「何が?」
「お前が」
さらりと言う。
妻は一瞬止まり、そして苦笑する。
「お弁当くらいで心配しなくても」
「初めてだろう」
「……そうね」
夫はキッチンに入り、フライパンを覗く。
「ハンバーグか」
「うん。結も好きだし、あなたも好きでしょう?」
「悪くない」
「唐揚げも揚げるわよ」
「朝から揚げ物か」
「気合い入ってるの」
油に唐揚げを入れると、勢いよく音が弾ける。
夫は腕を組み、しばらく眺める。
「コーヒー、淹れるわ」
「いや」
即答だった。
「自分でやる」
「でも」
「弁当に集中しろ」
妻は目を瞬く。
「……ありがとう」
夫は無言でコーヒーメーカーの前に立つ。
慣れた手つきで豆を挽く音が、静かな朝に溶ける。
「砂糖は?」
「いらない」
「ミルクは?」
「いらない」
「相変わらずブラックね」
「甘い玉子焼きがある」
その一言に、妻は思わず笑う。
「そうね」
やがて、二つの弁当箱がカウンターに並ぶ。
一つは黒いシンプルなもの。
もう一つは、ピンク色で、くまとうさぎのデコレーション。
結の弁当には、くまの顔のご飯。隣に甘い玉子焼き。ブロッコリー、ミニトマト、唐揚げ。
夫の弁当は落ち着いた盛り付けだが、同じおかずがきれいに並ぶ。
妻は少し離れて全体を見る。
「……うん、彩りいいかも」
夫も隣に立つ。
「きれいだな」
「本当?」
「ああ」
妻はほっと息をつく。
「あとは、美味しく食べてもらうだけね」
「その役目は任せろ」
「あなたが作ったわけじゃないでしょう?」
「食べるのは俺だ」
「そうね」
六時を過ぎた頃、結の部屋から元気な声が響く。
「ママー! 起きたー!」
「おはよう、結」
ぱたぱたと走ってきて、弁当箱を見つける。
「わあああ! かわいい!」
「くまさんいる!」
「甘い玉子焼きも入ってるわよ」
「やったー!」
結はぴょんぴょん跳ねる。
「パパのは?」
「これだ」
夫が黒い弁当箱を持ち上げる。
「おそろいだね!」
「中身はな」
結は夫を見上げる。
「パパ、うれしい?」
「普通だ」
「顔、ちょっとにやけてるよ?」
「にやけていない」
だが、確かにいつもより柔らかい。
朝食を軽く済ませ、身支度を整える。
エントランスまで見送りに出る妻。
「お弁当、忘れないでね」
「子供じゃない」
「でも初めてだから」
「……忘れない」
結も手を振る。
「パパー! ぜんぶ食べてね!」
「努力する」
「努力じゃなくて絶対!」
「善処する」
「パパ、ずるい!」
夫は軽く手を上げ、微かに笑った。
エントランス前には黒塗りの高級車。運転手がすぐにドアを開ける。
「おはようございます、旦那様」
「ああ」
乗り込もうとした瞬間、運転手がふと首を傾げた。
「……何か良いことでもございましたか?」
「何故そう思う」
「いえ、いつもより……表情が柔らかいように見えまして」
夫は一瞬黙る。
「そうか」
「はい」
ほんのわずか、口元が上がる。
「弁当を持っているだけだ」
「それは素敵な理由でございますね」
「……そうかもしれないな」
車のドアが静かに閉まる。
夫は膝の上の弁当箱を見下ろし、指先でそっと触れた。
「甘い玉子焼き、か」
低く呟きながら、車は朝の街へと滑り出した。




