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雨のち晴れ  作者: ありり
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甘い玉子焼きと、八年目の告白①

夜景が足元に広がるリビングに、玄関が静かに解錠する音が響いた。


「ただいま」


 低く、落ち着いた声。


 次の瞬間、ぱたぱたと小さな足音が走る。


「パパーっ!」


 勢いよく飛びついてきた娘の結を、夫は片腕で軽く受け止めた。


「……どうした。ずいぶん機嫌がいいな」


「えへへ、わかる?」


「声がワントーン高い」


「明日ね! 幼稚園、給食ないの!」


「……それで?」


「お弁当なの!」


 ぱあっと顔を輝かせる結。


 夫は一瞬だけ間を置き、淡々と頷く。


「なるほど。それは一大事だな」


「うんっ!」


 ソファでは妻がスマホを見つめたまま、小さく唸っていた。


「……どうしようかしら」


 夫はネクタイを緩めながら視線を向ける。


「何を悩んでいる」


「明日のお弁当。久しぶりだから、何を入れようかなって」


「ママね、ずっと悩んでるの!」と結が報告する。


「ふむ」


 夫は上着を佐川に渡す。


「旦那様、お帰りなさいませ」とメイドの佐川が一礼する。


 夫は軽く頷き、ソファの背に手を置いた。


「玉子焼き」


 ぽつり、と。


 妻が顔を上げる。


「え?」


「弁当といえば、玉子焼きだろう」


 妻は少し笑う。


「私の玉子焼き、結構甘いわよ?」


「甘いの大好き!」と結が即答する。


 夫は娘を見下ろす。


「ほう。そんなにか」


「うん! ねえママ、作って!」


 妻は少し考えたあと、柔らかく頷いた。


「わかった。甘い玉子焼き、作るわね」


「やったー!」


 結はくるくる回る。


 夫はその様子を眺めながら、静かに言った。


「……久しぶりだな」


「そうね。最近、作ってなかったかも」


 結が首をかしげる。


「なんで作らなかったの?」


 妻は一瞬、言葉を選ぶ。


「それは……」


 結が先に答えた。


「パパが甘いの、あんまり好きじゃないから!」


 空気が一瞬止まる。


 夫は無表情のまま、視線だけを妻へ向けた。


「……そういうことか」


 妻は肩をすくめる。


「あなた、甘いものあまり得意じゃないでしょう? だから、だんだん作らなくなっちゃったの」


「ママは甘いの好きだから、玉子焼きも甘くなっちゃうんだよね」と結。


「……なるほど」


 夫は少しだけ考えるように目を伏せた。


 そして、短く言う。


「玉子焼き、食べたい」


 妻が目を瞬かせる。


「え?」


「甘いのでいい」


「レシピ、見ながら作ろうかしら。少し甘さ控えめに――」


「いや」


 即答だった。


 夫は妻をまっすぐ見た。


「お前の甘い玉子焼きが食べたい」


 結が「わあ」と声を上げる。


 妻は驚いたように目を見開く。


「……急にどうしたの?」


 夫は少しだけ視線を逸らした。


「昔、作ってくれただろう」


「……ああ」


「そのとき」


 ほんのわずか、口元が緩む。


「正直、甘いと思った」


「でしょうね」


「だが」


 間。


「嫌いじゃなかった」


 妻の目がやわらかくなる。


「当時は、素直に美味しいと言えなかった」


 夫の声は相変わらず落ち着いているが、どこか低く優しい。


「仕事のことで頭がいっぱいだった。味わう余裕もなかった」


 結はきょとんとしている。


「今は?」


 妻が静かに問う。


「今は」


 夫は娘の頭を撫でた。


「家の味を、ちゃんと味わいたい」


 妻はふっと微笑む。


「……しっかり言葉に出さないと、伝わりませんよ?」


「……そうだな」


 夫は小さく息をつく。


 そして、少しだけ照れたように咳払いをした。


「その……」


「はい?」


「明日」


 視線が泳ぐ。


「俺も、弁当を持っていってもいいか」


 結が大きな声を上げる。


「パパもー!? おそろい!?」


 妻はくすっと笑う。


「照れてる?」


「照れていない」


「顔、ちょっと赤いですよ」


「気のせいだ」


「……頼む」


 短く、しかしはっきりと。


 妻は嬉しそうに頷く。


「はい。あなたの分も作ります」


「結婚してもうすぐ八年か」


「そうね」


「意外だな」


「何が?」


「お前の弁当を、ちゃんと作ってもらうのは初めてだ」


 妻は少し驚き、そして笑う。


「本当ね。なんだか新婚みたい」


「今さらか」


「今さらです」


 そこへ佐川が控えめに口を挟む。


「奥様、明日のお弁当、私もお手伝い致しましょうか?」


 妻は首を横に振った。


「ううん、大丈夫。明日は……私一人で作りたいの」


「かしこまりました」


 夫は静かに言う。


「無理はするな」


「大丈夫よ。ちょっと早起きするだけ」


 結が両手を広げる。


「甘い玉子焼き、いっぱい入れてね!」


「はいはい」


 夫は娘を抱き上げた。


「入れすぎるな。バランスが大事だ」


「パパ、クール!」


「普通だ」


 夜景がきらめく窓の向こう。


 妻はスマホを閉じ、キッチンの方へ視線を向ける。


「久しぶりね、甘い玉子焼き」


「楽しみにしている」


 短い言葉。


 でも、その声は確かに温かかった。


 八年目の初夏。


 最上階のリビングに、ほんの少しだけ新婚のような空気が戻っていた。

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