パパのメガネ
休日の午後。
タワーマンションの高層階、陽の光が大きな窓から差し込むリビング。
ソファに腰掛ける夫は、珍しくメガネ姿だった。いつもはコンタクトの彼が、今日は細縁の黒いメガネをかけ、ネイビーのシャツ姿でくつろいでいる。
結はその姿を見た瞬間、目を輝かせた。
「パパ!!」
「なんだ、そんな大声を出して」
「かっこいい!!」
夫は眉をわずかに上げる。
「……そうか?」
「うん!いつももかっこいいけど、今日はもっとかっこいい!メガネのパパ、だいすき!」
ぱたぱたと駆け寄り、夫の膝に身を乗り出す結。
夫は小さく息をつきながらも、自然に片腕で支えた。
「これは仕事用だ。今日は書類を少し見るだけだからかけているだけだ。今だけだ」
「えーっ!」
結は頬をふくらませる。
「もっとつけてて!幼稚園にもそれで来て!」
「断る」
「なんでぇ?」
「目立つ」
即答だった。
そこへ、キッチンから様子を見ていた妻が微笑みながら近づく。
ワインレッドの落ち着いたワンピース姿。ゆったりとした足取りで夫の隣に腰を下ろす。
「あなた、似合ってますよ」
「お前まで何を言い出す」
「本当よ。知的で、少し意地悪そうで……素敵」
「“少し”か?」
「だいぶ、かもしれませんね」
結がくすくす笑う。
「ママもかっこいいって!」
妻は夫の腕にそっと触れ、少しだけ距離を詰める。
「私からもお願い。たまにはそのままでいてください」
夫は横目で妻を見る。
「お前はどうしてそう、調子よく人を乗せる」
「乗せてませんよ。事実を言っているだけ」
「……外では外す」
「では、家の中だけでも」
「……」
結がすかさず加勢する。
「パパ〜!たまにでいいから!ね?」
夫は娘と妻に挟まれ、わずかに口元を緩める。
「これ以上かっこいいと言われると調子に乗る」
「もう十分乗ってますよ」
妻の即答に、結がまた笑う。
「ママうまい!」
夫は軽くため息をつきながらも、観念したように言った。
「……たまにならだ」
「ほんと!?」
結がぱっと顔を輝かせる。
「約束?」
「約束はしない。気が向いたらだ」
「ずるーい!」
そのやりとりを、少し離れた場所からメイドの佐川が静かに見守っていた。
佐川はトレイにコーヒーを載せ、控えめな微笑みを浮かべて近づく。
「旦那様、奥様。コーヒーでございます」
「ありがとう、佐川」
妻が受け取る。
夫もカップを受け取りながら言う。
「……何がおかしい」
「いえ」
佐川は柔らかく目を細める。
「旦那様がメガネ姿でいらっしゃると、皆様の反応がいつもより賑やかで」
結がすぐに言う。
「ねえ佐川!パパ、今日いちばんかっこいいよね!」
「ええ、とてもお似合いでございます」
夫は小さく眉をひそめる。
「佐川、お前までか」
「事実でございますので」
妻が楽しそうに笑う。
「ほら、満場一致ですよ」
「……囲まれたな」
結は夫の腕にぎゅっとしがみつく。
「パパ、だいすき」
夫の表情がわずかに和らぐ。
「……そうか」
妻がそっと夫の肩に寄り添う。
「私も、ですよ」
一瞬、静かな空気が流れる。
高層階の窓の向こうには青空と街並み。
佐川はその光景を見つめながら、静かに思う。
(本当に、穏やかな時間でございますね)
かつては緊張に満ちていたこの空間も、今は柔らかな笑い声に包まれている。
夫はコーヒーを一口飲み、低く呟く。
「……たまにならな」
「うん!」
「はい」
結と妻の声が重なる。
その様子を見ながら、佐川は静かに頭を下げ、そっと一歩下がった。
休日の午後。
メガネ姿の夫と、それを囲む家族の笑顔。
穏やかな光が、リビングを優しく満たしていた。




