妻の回想⑨
私の役割は、結婚してからも変わらなかった。
炊事、洗濯、掃除。
来客の対応。
彼のスケジュール管理。
肩書きは「妻」になったけれど、
この家を整え、彼を支えることが、私の中心だった。
彼は相変わらず命令口調だった。
「無理をするな。」
「今日はもう休め。」
「それ以上やるな。」
短く、強い。
でも夜になると、何も言わずに背中から抱きしめてくれる。
「……ここにいろ。」
低い声と、確かな体温。
厳しいのに、優しい。
それが彼だった。
しばらくは、穏やかな日々が続いた。
結婚生活は静かで、整っていて、
私はようやく安らぎを知り始めていた。
――あの日までは。
ある夜、彼が書斎から私を呼んだ。
「座れ。」
向かい合う。
彼の表情は硬い。
「佐川が破滅した。」
一瞬、空気が止まる。
「二億、融資した。だが返済できず、行方不明だ。」
二億。
あのときの数字が、現実として戻ってくる。
「連帯保証人は、元妻だ。」
私は息を呑む。
「彼女が、二億の負債を抱えている。」
静かな声。
「返済のため、この家で働きたいと言ってきた。」
「……反対です。どうしてですか」
即答だった。
「理由は分かっているだろう。」
あの十五分。
あの恐怖。
名前を聞くだけで、胸がざわつく。
彼は少し黙ってから言った。
「彼女は路頭に迷う。」
「それは……」
言葉が詰まる。
彼は、弱い者を見捨てない。
それが彼の強さでもあり、私の好きなところでもあった。
「雇う。」
決定事項の声。
私は視線を落とす。
彼を困らせたくなかった。
彼の選択を、否定したくなかった。
「……分かりました。」
そうして、佐川の元妻はこの家で働くことになった。
初めて顔を合わせたとき、彼女は深く頭を下げた。
「よろしくお願いいたします。」
私は冷たく言った。
「ここは甘い場所ではないわ。」
そのとき、私の心は凍っていた。
佐川への恨み。
奪われた尊厳。
消えない記憶。
そして――
なかなか子宝に恵まれない焦り。
結婚しても、
抱きしめられても、
私のお腹は静かなまま。
検査結果を見るたびに、胸が軋んだ。
その苛立ちの矛先は、彼女に向かった。
「やり直して。」
「遅い。」
「返事は短く。」
私は彼女を奴隷のように扱った。
重い仕事を押し付け、
休憩を削り、
理不尽な叱責を繰り返した。
彼女は、黙って従った。
言い訳をしなかった。
夜、鏡に映る自分を見るたび思う。
――私は、こんなにも残酷になれるのか。
佐川の元夫は絶対に許せない。
けれど、目の前の彼女は。
ただ借金を背負わされ、
頭を下げるしかない人間だった。
それでも私は止まれなかった。
凍った心は、誰かを傷つけることでしか保てなかった。
そして結婚四年目。
ようやく、妊娠が分かった。
診察室で医師の声を聞いたとき、
涙が溢れた。
彼は私の肩を抱き寄せる。
「ありがとう」
その言葉で、張り詰めていた糸が切れた。
けれど妊娠は楽ではなかった。
悪阻が重く、立つこともつらい。
そんなとき。
彼女は、黙って支えた。
「こちらでいたします。」
「横になってください。」
私の理不尽な命令も、
弱音も、
すべて受け止めた。
ある夜、私は吐き気で動けなくなった。
彼女が背中をさする。
「大丈夫です。ゆっくり呼吸を。」
その手は、温かかった。
私は初めて、まっすぐ彼女を見た。
佐川の元夫は許せない。
けれど、彼女は違う。
少しずつ。
本当に少しずつ。
凍った心が溶けていった。
そして――
結が生まれた。
小さな泣き声が、この最上階に響いた日。
彼は娘を抱き、静かに言った。
「守る。」
その横で、彼女は涙を拭いていた。
「おめでとうございます。」
あれから三年。
結はよく笑い、よく話す。
この家は、明るい声で満ちている。
私はもう、怒りに支配されていない。
過去は消えない。
けれど今は、穏やかな心で過ごしている。
夫と、結と。
そして――
かつて憎しみを向けた彼女とともに。




