妻の回想⑧
自室のベッドの上で、膝を抱えていた。
震えは少し収まっていたが、胸の奥のざわつきは消えない。
――もう、ここにはいられない。
そう思いかけたとき。
コン、コン。
静かなノック。
「……入る。」
彼の声だった。
扉が開く。
私は顔を上げられなかった。
足音が近づく。
そして、低い声。
「大丈夫だ。」
次の瞬間、強く、でも優しく抱きしめられた。
思考が止まる。
彼の腕は、思っていたよりも温かかった。
「……すまない。」
彼の声が、耳元で落ちる。
「一人にした。」
私は何も言えない。
ただ、胸の奥に溜まっていたものが、静かに溶けていく。
彼はしばらく、何も言わずに抱きしめてくれた。
厳しい口調も、命令もない。
ただ、守るように。
「今日はもう何もするな。」
「……でも、夕食の準備が」
「するな。」
はっきりとした命令。
「俺が手配する。」
その夜の夕食は、外から届いた料理だった。
テーブルに並ぶ料理を前に、彼は向かいに座る。
「食べろ。」
私は小さく頷く。
「……はい。」
二人で、静かに食べた。
いつもより近い距離。
彼は何度も、さりげなく私を見ていた。
食後、私は意を決して口を開いた。
「……もう、ここにはいられないと思います。」
彼の目が細くなる。
「なぜだ。」
「佐川が……怖いんです。」
声が震えた。
「また来たら、私は……」
言葉が続かない。
彼は立ち上がり、私の前に来る。
顎を軽く上げられ、視線を合わせられた。
「今度は守る。」
強い声。
「絶対に、守る。」
そして、再び抱きしめられる。
その腕から、離れたくないと思った。
――私は、もう彼から離れられなくなっていた。
好きだった。
ずっと。
それを認めるのが怖かっただけだ。
「ここにいろ。」
命令口調。
けれど、その奥に必死さが滲んでいる。
「……はい。」
私は、留まることを選んだ。
翌朝。
私はいつも通り、仕事を始めた。
彼は休みを取った。
「今日は無理をするな。」
「でも、お仕事は」
「俺が決める。」
その日は、何度も様子を見に来た。
昼も、夕方も。
そして、夕方。
「支度をしろ。」
「……はい?」
「ドライブに行く。」
驚きで、言葉を失う。
「早くしろ。」
どこか、照れ隠しのような声。
彼は運転席。
私は助手席。
エンジンが静かに唸り、夜の街へ滑り出す。
しばらく無言。
窓の外の景色が流れていく。
やがて、彼が口を開いた。
「……ずっと好きだった。」
ハンドルを握る手は、真っ直ぐ前を向いている。
私は息を呑む。
「初めて会ったときからだ。」
「……私は、年上です。」
「関係ない。」
即答。
「俺が決める。」
私は、ずっと歳の差を気にしていた。
彼の未来を狭めるのではないか。
いずれ、若い誰かに心を奪われるのではないか。
そして、捨てられるのではないか。
それが怖くて、応えられなかった。
でも。
私も好きだった。
きっと、最初から。
「……結婚してくれ。」
命令のようでいて、どこか必死な声。
沈黙。
胸の鼓動が速い。
「いずれ、後悔するかもしれません。」
「しない。」
「私を、捨てるかもしれません。」
ブレーキがかかる。
車が路肩に止まる。
彼は私を見る。
真っ直ぐに。
「捨てない。」
強い目。
「俺を信じろ。」
涙が滲む。
私は、もう逃げられなかった。
いや。
逃げたくなかった。
「……はい。」
小さく、でも確かに。
「よろしくお願いします。」
彼は一瞬、目を見開き。
そして、静かに微笑んだ。
あの、私だけが知っている柔らかな微笑みで。
私は、彼のプロポーズを受け入れた。




