妻の回想⑦
彼の家の使用人になって、二年が過ぎていた。
私はもう、この家の動きに無駄なく溶け込んでいた。
彼の予定も、人脈も、来客の癖も把握している。
その頃、ひとつの案件が持ち上がった。
「佐川という男が、融資を頼んでくる。」
二億円。
数字を聞いたとき、私は思わず息をのんだ。
「……二億円ですか。」
彼はソファに腰掛けたまま、淡々と言う。
「たいした額ではない。」
私にとっては、人生がひっくり返るほどの金額。
けれど彼にとっては、投資の一つに過ぎないらしい。
数日後、佐川がやってきた。
初対面の印象は――最悪だった。
私と同じぐらいの年齢の男。
高価なスーツ。
口元に浮かぶ、粘つくような笑み。
私を見る目が、嫌だった。
「ほう……」
ねっとりとした声。
私は無表情を保つ。
「本日はお越しいただきありがとうございます。」
彼はニヤニヤと笑った。
「若い社長には、もったいないほどの美人がいるじゃないか。」
その言葉に、背筋が粟立つ。
リビングに通した直後、主人の携帯が鳴った。
彼は画面を一瞥し、立ち上がる。
「少し外す。飲み物を出しておけ。」
「かしこまりました。」
私はキッチンへ向かい、アイスコーヒーを用意した。
氷の音が、やけに大きく響く。
トレイを持ち、リビングへ戻る。
「どうぞ、アイスコーヒーでございます。」
テーブルに置こうとした瞬間。
佐川の視線が、腕から首元へと這う。
「……」
無言。
「彼はまだ若い。これからいくらでも変わる。」
私は視線を落としたまま答える。
「お話の続きは、主人が戻られてからお願いいたします。」
佐川は笑う。
「彼が結婚したら、君の居場所はなくなるぞ。」
心臓が一瞬だけ強く打つ。
「……その時は、その時で考えます。」
「今のうちに、うちへ来ないか?」
ぞっとする。
「佐川家なら、もっと良い待遇を約束しよう。」
「お断りいたします。」
声は震えていなかった。
「私の居場所は、ここだけです。」
佐川は一瞬、目を細めた。
次の瞬間。
がし、と腕を掴まれた。
「っ……!」
強い力。
「強がるな。」
ソファに引き寄せられる。
氷が入ったグラスが、かすかに音を立てる。
「放してください。」
「彼は若い。いずれ君を捨てる。」
「やめてください。」
声を上げれば、彼の信用を落とすかもしれない。
それが一瞬、頭をよぎる。
「いいから、少し話を聞け。」
腕をさらに強く引かれる。
嫌悪感。
恐怖。
息が浅くなる。
その後のことは――思い出したくない。
時間が異様に長かった。
時計を見る余裕もなかったが、後で知った。
約十五分。
地獄のような時間だった。
ようやく。
玄関のドアが開く音がした。
「……待たせた。」
彼の声。
その瞬間、佐川の手が離れる。
私は立ち上がり、何も言わずに頭を下げる。
「失礼いたします。」
足が震えていた。
それでも必死に廊下を歩く。
自室に飛び込む。
背中を扉に預け、崩れ落ちた。
手が、震えている。
吐き気がする。
リビングからは、何事もなかったかのように、男たちの低い声が聞こえていた。
私は布団の中に潜り込む。
ただ、震えが止まらなかった。
主人が戻ってきた。
それだけが、救いだった。
私は、そのまま自室に引きこもった。




