妻の回想⑥
最上階のこの部屋で、私は“使用人”になった。
炊事、洗濯、掃除。
来客の対応。
彼のスケジュール管理。
すべてを、ひとりで。
朝は彼よりも早く起き、
夜は彼よりも遅く眠る。
生活の中心は、完全に彼になった。
私は黒縁メガネを外し、コンタクトに変えた。
仕事をするうえで、メガネは邪魔だったから。
けれど本当は――
少しでも“使用人らしく”見えたかったのかもしれない。
契約が始まってすぐ、彼の厳しい指導が始まった。
「言葉遣いを改めろ。」
「必要以上に他人と会話をしないこと。」
「笑わなくていい。」
静かで、冷たい声。
かつて私が知っていた“後輩”の面影はほとんどなかった。
命令は的確で、妥協がない。
理不尽だと思うこともあった。
ほんの些細なミスでも、容赦なく指摘される。
来客の前では一切の感情を見せるな、と言われた。
笑わないこと。
それは、思っていたよりも難しかった。
あのとき、彼をふったから――
その八つ当たりだろうか。
きっと、そうなんだろう。
そう思えば、少しは耐えられた。
私はここを辞めるわけにはいかない。
生きるために、ここにいるのだから。
それに。
彼は、私が思っていた以上の存在だった。
若いのに、すでに裕福で。
広い人脈を持ち。
判断も早く、無駄がない。
頭の回転は、会社員時代よりさらに研ぎ澄まされていた。
時折、ふと思う。
――私が会社を辞めることになったあの件も、
彼が仕組んだことなのではないか。
確証はない。
けれど、彼なら不可能ではない。
そう思えてしまうほど、彼は力を持っていた。
それでも。
私は黙って従った。
厳しい。
とにかく厳しい。
けれど、不思議と逃げ出したいとは思わなかった。
彼の視線は、いつも鋭い。
命令口調も冷たい。
なのに。
私が作る食事だけは、否定しなかった。
「……悪くない。」
それが、彼の評価。
決して「美味しい」とは言わない。
けれど、毎回、必ず。
「悪くない。」
その一言が、胸に温かく残った。
私はもともと、家事全般が得意だったわけではない。
けれど、少しでも認められたくて。
ほんの少しでも、褒められたくて。
レシピを研究し、
掃除の手順を見直し、
スケジュール管理も完璧に近づけようと努力した。
理不尽に叱られても。
心のどこかで、彼の視線を探していた。
彼は厳しい。
けれど。
完全に突き放しているわけではない。
夜遅くまで働く私に、
「今日はもういい」とだけ言う日がある。
私が体調を崩しそうなときは、
何も言わずにスケジュールを軽くする。
気づけば、いつも見られている。
監視ではない。
――見守られている。
厳しい口調の奥に、
確かにそれを感じていた。
私は、この家で。
使用人として、
彼の傍に立ち続けていた。




