妻の回想⑤
彼の告白から、約一ヶ月後。
私は上司に呼び出された。
会議室の扉が閉まる音が、やけに重く響いたのを覚えている。
「君に関わる不正請求の件だが――」
最初は、何を言われているのか理解できなかった。
身に覚えのない数字。
見覚えのない処理。
私の名前が、当事者として記録されているという。
「そんなはずはありません。」
声は震えなかった。
けれど、足先が冷えていくのを感じた。
調査の結果、故意ではない可能性が高い。
だから解雇ではない。
けれど。
「懲戒処分とする。」
その言葉で、すべてが終わった。
解雇ではない。
でも――
もう、その会社にはいられなかった。
真面目だけで生きてきた。
不正とは無縁だった。
ルールを守り、波風を立てず、誠実に働いてきた。
それが、唯一の取り柄だったのに。
それを奪われた。
あの日、会社を出た瞬間。
私は初めて、自分の足元が崩れる感覚を知った。
その後、再就職活動を始めた。
履歴書を書く。
面接を受ける。
丁寧に、誠実に。
けれど、うまくいかない。
理由は明確に言われない。
けれど分かる。
経歴に残る、あの処分。
私は、社会から静かに弾かれていた。
そんなとき。
携帯にメールが入った。
差出人の名前を見て、心臓が小さく跳ねた。
――彼。
《大事な話があります。家に来てくれませんか?》
しばらく画面を見つめた。
正直、余裕はなかった。
再就職のことで頭がいっぱいだった。
けれど。
ほんの少しだけ、息抜きが欲しかった。
それに――
あのとき断ったままの関係に、どこか引っかかりもあった。
私は、彼に会うことにした。
再び訪れた、あの最上階。
扉を開けた瞬間、空気が違うと分かった。
彼は、もう“後輩”ではなかった。
仕立ての良いスーツ。
無駄のない所作。
視線の強さ。
成功者のオーラを、静かに纏っていた。
「元気そうね。」
私は、いつもの調子で笑った。
彼は、微笑んだ。
「はい。」
その目は、以前よりもずっと落ち着いていた。
そして、単刀直入に言った。
「提案があります。」
私は身構えた。
「俺の家の使用人になりませんか?」
一瞬、意味が理解できなかった。
「……え?」
彼は続ける。
私が会社を辞めたこと。
再就職がうまくいっていないこと。
すべて、知っていた。
「今後も、再就職がうまくいく可能性は低いと思いますよ。」
淡々とした声。
事実だけを述べている。
否定できなかった。
私はまだ、奨学金の返済が残っている。
両親に迷惑をかけるわけにはいかない。
このまま貯金が減り続ければ、いずれ実家に戻るしかない。
それだけは、避けたかった。
「生活面の心配は不要です。きちんと給与も支払います。部屋も用意します」
彼の視線は、あくまで真っ直ぐだった。
同情ではない。
提案。
私は、しばらく黙っていた。
誇り。
迷い。
情けなさ。
さまざまな感情が胸をよぎる。
けれど――
選択肢は、ひとつしかなかった。
「……分かりました。」
顔を上げる。
「あなたの家の使用人になります。よろしくお願いします」
その言葉を口にした瞬間。
私の人生は、静かに大きく方向を変えた。
彼の家の、使用人になる。
それしか、なかった。




