妻の回想③
彼は、静かな青年だった。
最初に会ったときの印象は――
「整っている」。
丹精な顔立ち。
余計なことを言わない落ち着き。
目の奥が、とても冷静だった。
そして何より、頭が良い。
教えたことは一度で理解する。
応用も早い。
視点が鋭い。
私はすぐに思った。
――この子、きっと出世する。
いずれ私の上司になるのだろう。
そうなっても不思議ではない。
年下だけれど、能力は明らかに違った。
雑談はほとんどなかった。
彼は必要以上に自分を語らないし、私も踏み込まない。
けれど、仕事となると話は別だった。
「ここはもう少し確認してから提出して」
「今日はここまででいいから、無理しないで」
指導する立場として、私は淡々と接した。
彼は真面目だった。
真面目すぎるほどに。
頑張りすぎるところがある。
終電近くまで残る背中を見て、
私は何度か声をかけた。
「無理しなくていいのよ。」
彼はそのたび、少しだけ微笑んだ。
その微笑みが、ほんの少しだけ柔らかくて――
きっと、女心をくすぐるのだろう。
でも、私に芽生えたのは恋心ではなかった。
どちらかといえば、母親のような感情。
危なっかしい優秀な子を、
見守っていたいという気持ち。
私は、彼の成長を見続けたいと思っていた。
けれど――
ある日、彼は静かに言った。
「会社を辞めます。」
独立するのだと。
驚きはした。
けれど、納得もした。
この人は、誰かの下で終わる人ではない。
残念だった。
もう一緒に働けない。
もう成長を間近で見ることはできない。
それでも同時に、楽しみでもあった。
きっと成功する。
そんな確信があったから。
それからしばらくして。
「話があります。」
彼にそう言われた。
「仕事の相談もあるので、よければ自宅に来てもらえませんか。」
一瞬、躊躇した。
男性の家に、ひとりで行く。
29歳の私には、多少の勇気が必要だった。
けれど。
そもそも私は、彼の恋愛対象外だと確信していた。
私は地味で、真面目で、黒縁メガネの女。
彼は若くて、優秀で、未来のある人。
何も起きるはずがない。
そう思って、私は彼の家を訪れた。
エントランスを抜け、
高層エレベーターに乗り、
最上階の表示を見たとき。
少しだけ、胸がざわついた。
扉が開く。
そこが――この家だった。
広い。
静か。
洗練されている。
若くしてタワマン最上階。
どうしたら、こんな場所に住めるのだろう。
驚きしかなかった。
彼は窓際に立ち、夜景を背にしていた。
振り返る。
あの、静かな目。
「会社を辞めて、独立します。」
改めて、そう言った。
私は頷く。
「それから――」
一拍。
空気が変わった。
「結婚を前提に、付き合ってほしいと思っています。」
時間が、止まった気がした。
私に向けられた視線は、
これまで見たことのないほど真っ直ぐだった。




