妻の回想①
――タワマン最上階。
大きな窓から、午後の光がキッチンの白い大理石にやわらかく落ちている。
ジュウ、とフライパンから音が立つ。
肉の焼ける匂いに、少しだけナツメグを効かせたソースの甘い香りが混ざる。
そのとき、ひょこっと小さな顔がカウンターの向こうから現れた。
「ママ、今日のご飯なあに?」
結――私の娘。
大きな瞳をきらきらさせて、つま先立ちでキッチンを覗いている。
私はフライパンを傾けながら、振り向かずに答えた。
「ハンバーグよ。」
一瞬の静寂のあと。
「やったあああ!!」
ぱたぱたと小さな足音。
両手を挙げて飛び跳ねる気配が伝わる。
「ママのハンバーグ大好き!」
思わず、口元がゆるむ。
クールでいるつもりでも、娘の声には勝てない。
「そう。よかった。」
振り向くと、結はにこにこしながら続けた。
「ねえねえ、パパとママって、いつも仲良しだよね!」
突然の話題転換に、私は一瞬だけ手を止める。
「……そうかしら。」
「うん!この前ね、パパに聞いちゃったの。ママとどこで出会ったの?って!」
フライパンの音が、やけに大きく聞こえる。
「……そう。」
「そしたらね、ママは結婚する前からこのお家を守ってくれてたんだよって!すごいよね!」
守ってくれていた。
その言葉が、胸の奥に静かに落ちた。
そう――私は、結が生まれる前からここにいる。
結婚前から。
30歳のとき、この家の使用人になった。
初めてこの最上階に足を踏み入れたときのことは、今でも鮮明に覚えている。
高すぎる天井。無機質な静けさ。
完璧に整えられた空間と、どこか冷たい空気。
そして――
この家の主人だった、あの人。
当時の私は、ただ“仕える側”だった。
距離を守り、感情を抑え、与えられた役目を完璧にこなすことだけを考えていた。
33歳で、彼と結婚した。
まさか、自分がこの家の“奥様”と呼ばれる立場になるなんて、あの頃は想像もしていなかった。
37歳で、結を産んだ。
この広すぎるリビングに、小さな泣き声が響いた日のこと。
あの人が不器用に、でも確かに優しく、娘を抱き上げた姿。
守る側だったはずの私が、いつの間にか守られていた。
「ママ?」
結が不思議そうに私を見上げる。
「どうしたの?」
「ううん。」
私は微笑む。
「ハンバーグ、もうすぐ焼けるわよ。」
結は満足そうにうなずき、リビングへ駆けていった。
――私は30歳で、この家に来た。
あの頃の私は、もっと硬くて、もっと静かで、
感情を奥深くにしまい込んでいた。
今、キッチンに立つ私は。
同じ場所にいるはずなのに、
まるで別の人生を歩いてきたみたいだ。
フライパンの中で、ハンバーグがふっくらと膨らむ。
ふと、過去の自分の姿が重なる。
使用人だった私。
まだ妻ではなかった私。
母でもなかった私。
あの頃の私は――




