結のお手伝い③
タワーマンションのエントランスを抜け、エレベーターで最上階へ。
「ママ、ただいまー!」
玄関のドアが開くと同時に、結の元気な声が響く。
キッチンから、落ち着いた声が返る。
「おかえりなさい」
エプロン姿の妻は、コンロの前に立っていた。鍋からは湯気が立ちのぼっている。
夫は靴を脱ぎながら目を細める。
「何を作っている?」
「佐川のためにお粥よ。喉が痛いみたいだから、消化のいいものをと思って」
優しいが、どこか静かな気遣いの滲む声。
結は目を丸くする。
「さがわのおかゆ?」
「ええ。ちゃんと食べないと、早く治らないでしょう?」
夫は買い物袋を持ってキッチンへ向かう。
「材料は揃えた」
袋をカウンターに置く。
「牛肉、白菜、ネギ、豆腐……メモ通りだ」
妻が中を確認する。
「ちゃんと“すき焼き用”ね」
「ゆいがえらんだの!」
胸を張る結。
夫が淡々と付け加える。
「肉売り場で五分は迷っていたがな」
「パパがまよってたの!」
「……否定はしない」
妻は小さく笑う。
「結、重い白菜も頑張ってカゴに入れたのよね?」
「うん!おもかった!」
夫が静かに言う。
「今日はよく働いた。ほとんど結が揃えた」
結の目がきらりと輝く。
「ほんと?」
「本当だ」
妻は包丁を置き、二人を見る。
「ありがとう。二人とも」
その声は、いつもの凛とした響きの奥に、柔らかさがあった。
「佐川もきっと安心するわ」
結は嬉しそうに笑う。
「ゆい、おてつだいだいすき!」
夫は妻の横顔を見つめる。
「……家のことは任せきりだったからな」
妻は軽く首を振る。
「あなたが一緒に行ってくれただけで十分ですよ」
一瞬、視線が交わる。
言葉は少ないが、互いの気持ちは伝わる。
結が小声で言う。
「ママ」
「なあに?」
「パパ、すごいかっこよかったよ」
夫が咳払いをする。
「余計な報告は不要だ」
「えー!」
妻はくすりと笑う。
「そう。ありがとう、結」
そして夫を見る。
「……あなたも、ありがとう」
夫は短く頷くだけだが、その目は柔らかい。
キッチンには、すき焼きの準備の音と、優しいお粥の香りが混ざっていた。
家族の休日は、静かに、温かく続いていく。
湯気の立つお粥を、小ぶりの盆に乗せる。
「……少し様子を見てくるわ」
妻は静かにそう言い、廊下へ向かう。
その後ろを、そっと小さな足音が追う。
「ゆいもいく」
「静かにね」
「うん」
佐川の部屋の前で、妻は軽くノックをする。
「佐川、入るわよ」
「……はい」
いつもより弱い声。
扉を開けると、カーテンを半分閉めた室内。ベッドに横たわる佐川が、慌てて起き上がろうとする。
「起きなくていいわ」
妻は穏やかに制する。
「お粥を持ってきたの。まだ熱いから気をつけて」
盆をサイドテーブルに置く。
その時、扉の影からひょこっと顔が出る。
「さがわ」
「……お嬢様」
佐川の目が、少し大きくなる。
結はそろりと部屋に入り、ベッドの横まで来る。
「きょうね、ゆい、パパとおかいものいったの」
「そうですか……」
「おにくも、はくさいも、ねぎも、ゆいがえらんだんだよ!」
誇らしげな声。
妻が静かに補足する。
「今日は本当によく頑張ったのよ」
結は佐川の顔をじっと見つめる。
「さがわ、はやくげんきになってね」
その言葉はまっすぐだった。
「さがわがいないと、なんかさみしいの」
佐川の喉が、小さく動く。
「……そのようなお言葉を、私に」
結はさらに続ける。
「げんきになったらね、こんどはゆいといっしょにおかいものいこう?」
「え?」
「ゆい、つぎはさがわとえらびたい!」
小さな手が、布団の端をぎゅっと握る。
「だから、ちゃんとおかゆたべて、なおしてね」
沈黙。
佐川は目を伏せる。
その肩が、わずかに震えている。
「……お嬢様」
声が掠れる。
「私などに、そのような……」
言葉が続かない。
妻が静かに言う。
「あなたは“私など”ではないわ、佐川」
凛とした声音。
「この家の一員よ。だから遠慮なく甘えなさい」
佐川の視界が滲む。
ぽたり、と涙が落ちる。
「……もったいないお言葉です」
結が慌てる。
「えっ、さがわ、ないてる?」
「……嬉しいのです」
佐川は小さく微笑む。
「必ず、早く元気になります。そして……お嬢様と買い物に参ります」
結はにっこり笑う。
「やくそくだよ!」
「はい。お約束です」
妻は静かに盆を佐川の前へ寄せる。
「冷めないうちに食べなさい」
「……はい」
部屋には、優しい湯気と、静かな温もりが広がっていた。
廊下に出ると、結が小さな声で言う。
「さがわ、すぐなおるよね?」
妻は結の頭を撫でる。
「ええ。きっとね」
そしてふと、リビングの方を見る。
家族の笑い声が聞こえるこの家で。
佐川もまた、少しずつ居場所を温められていくのだった。




