妻にウェディングドレスを②
玄関の扉が開く音がした。
「ただいま戻りました」
柔らかい声。
結が一番に走る。
「ママーーー!」
リビングに入ってきた妻は、エコバッグを腕にかけたまま微笑む。
「はいはい、そんなに走らないの。転びますよ」
夫はソファから立ち上がる。視線は自然と妻に向く。
黒髪をまとめ、落ち着いたワンピース姿。
何気ない日常の姿なのに、胸がざわつく。
(やっぱり、綺麗だ)
佐川が荷物を受け取る。
「おかえりなさいませ、奥様」
「ありがとう、佐川」
呼び捨ての声音は自然で、どこか柔らかい。
少し落ち着いた頃、夫が口を開いた。
「……お前、少しいいか」
妻は気づいたように夫を見る。
「なんでしょう」
夫は壁の写真を指さす。
白無垢の写真。
妻の表情が一瞬だけ照れを帯びる。
「またそれを見ていたの?」
「見ていた」
間を置かずに続ける。
「結婚式を挙げたい」
リビングの空気が止まる。
結がすかさず言う。
「ドレスみたい!」
妻が瞬きをする。
「……え?」
夫は真っ直ぐ妻を見る。
「ウェディングドレスを着て、式をあげたい。写真も撮りたい」
静かな声だが、真剣だった。
妻は困ったように微笑む。
「前にも言ったでしょう? 今さら……」
「今さらじゃない」
遮るように。
「やっていないだろう。俺たちは式を」
妻は視線を落とす。
「でも……」
結が妻の膝に抱きつく。
「ママ、おひめさまみたいなのきて!」
「結……」
「みたいの!」
無邪気な瞳。
妻は一瞬、言葉を失う。
夫が畳みかける。
「俺も見たい」
低く、真っ直ぐに。
「お前のドレス姿を」
妻は苦笑する。
「もう若くないのよ?」
「関係ない」
即答。
「体型だって、あの頃とは違うわ」
「だから何だ」
妻は小さく息をつく。
「……あなたは気にしないでしょうけど、私は気にするの」
沈黙。
佐川がそっと口を開く。
「奥様、とてもお似合いになると思います」
妻がちらりと見る。
「佐川、簡単に言わないで」
「失礼しました」
しかし穏やかな目。
夫が一歩近づく。
「俺は本気だ。式を挙げたい。小さくていい。家族だけでいい」
「……」
「写真も残したい」
妻の瞳が揺れる。
「どうしてそんなに……」
夫は少しだけ視線を逸らし、そして戻す。
「俺が、お前をちゃんと花嫁にしたいからだ」
真っ直ぐすぎる言葉。
妻は言葉に詰まる。
結がまた言う。
「ママ、がんばる?」
妻は苦笑する。
「がんばるって何を?」
結はお腹をぽんぽん叩く。
「ここ!」
思わず夫が吹き出す。
「結」
妻も小さく笑うが、すぐ真顔になる。
「……三ヶ月」
「何?」
「三ヶ月、時間がほしい」
夫が眉を上げる。
「理由は?」
妻は少し頬を赤らめる。
「できる限り、体型を戻したいの。ドレスを着るなら、少しでも整えたい」
夫は一瞬、言葉を失う。
「……俺のためにか」
「あなたがそんなに望むなら」
小さな声。
その言葉に、夫の胸が熱くなる。
「お前……」
妻は続ける。
「急には無理。でも三ヶ月あれば、少しは努力できると思う」
夫はすぐに言う。
「エステでもフィットネスでも何でもやれ。いくらでも出す」
妻が目を丸くする。
「そこまでしなくても」
「する」
断言。
「最高の状態で立たせる」
佐川が静かに言う。
「八月頃になりますね」
夫が頷く。
「三ヶ月後、八月にやる」
妻が少し笑う。
「ずいぶん具体的ね」
「決めないと流れる」
結が手を挙げる。
「ゆいもドレスきる!」
「ああ」
妻がようやく小さく頷く。
「……分かりました。三ヶ月後、八月に。小さな式なら」
夫の目が輝く。
「本当か」
「あなた、約束よ? 無理はしないこと」
「しない」
即答。
「お前が隣にいればいい」
結が叫ぶ。
「けっこんしきー!」
佐川が静かに頭を下げる。
「準備は私が整えます」
妻が穏やかに言う。
「頼りにしてるわ、佐川」
夫はもう一度、壁の写真を見る。
(八月)
胸の奥が静かに高鳴る。
妻はまだ少し不安げだが、どこか覚悟を決めた顔をしていた。
その横顔を見つめながら、夫は思う。
(三ヶ月後、必ず)
今度こそ、ちゃんと花嫁にする。




