結とポニー
ある日の夜。
タワマンの高層階、ガラス越しに広がる夜景を背に、リビングでくつろいでいた家族の時間。
結はソファの上でぴょんと立ち上がった。
「ねえパパ! このまえ長野でのったポニー、またのりたい!」
夫は書類から目を上げる。
妻はワイングラスを揺らしながら微笑む。
「ずいぶん楽しかったのね」
「うん! ポニーさん、ふわふわでね、たかーくてね、トコトコしててね、またのりたいの!」
結の目はきらきらしている。
夫はわずかに口元を緩めた。
「今度の休み、近くの牧場に行くか」
「ほんと!?」
「約束だ」
「やったー!」
結は勢いよく夫に抱きつく。
妻はそんな二人を見つめながら、柔らかく笑った。
「あなたが言うと本当に連れて行ってくれるって分かるから、安心します」
「言ったことは守る」
淡々とした言い方だが、その声には確かな温度があった。
―――――
次の休日。
エントランスで佐川が一礼する。
「お気をつけて、旦那様、奥様、結お嬢様」
結は元気に手を振る。
「さがわー! ポニーのるのー!」
佐川はわずかに微笑む。
「楽しんでいらしてくださいませ」
夫が運転席に乗り込み、エンジンをかける。
高級車は滑らかに走り出す。
車内。
「パパ、ポニーさん、さわっていい?」
「牧場の人の言うことをちゃんと聞けばな」
「はーい!」
妻は助手席で後ろを振り返る。
「今日はお天気もいいし、最高ね」
夫は頷く。
「お前も楽しめ」
「私は見ているだけで十分ですよ」
夫はちらりと横目で見る。
「遠慮するな」
妻は小さく笑った。
「あなたが楽しそうなら、それで満足なの」
―――――
牧場。
青い空、草の匂い、土の感触。
結は真っ先にポニーの元へ駆けていく。
「ふわふわー!」
スタッフに手伝ってもらいながら、結はポニーにまたがる。
「パパみてー!」
「見てる」
夫は腕を組み、真剣な目で娘を見守る。
トコトコと歩くポニー。
結は誇らしげだ。
体験が終わると、結は走って戻ってくる。
「たのしかった!」
そして不意に聞く。
「パパとママはやらないの?」
妻は少し驚き、首を振る。
「ママはいいわ。結が楽しそうならそれで十分」
結はむっとする。
「パパは?」
夫は一瞬、空を見上げる。
「……久々に乗ってみるか」
「えっ?」
妻が目を丸くする。
スタッフに案内され、夫は大きめの馬にまたがる。
姿勢は自然で無駄がない。
手綱を握る手は安定し、背筋はまっすぐ。
ゆっくりと歩き出す馬。
妻は結を抱き上げる。
「……やっぱり、何をしてもかっこいいわね」
「うん!」
結は目を輝かせる。
「パパ、王子さまみたい!」
風を受けながら進む夫の姿は、確かに堂々としている。
青空の下、馬上の姿は絵になるほどだった。
体験を終え、夫が戻ってくる。
妻は興味深そうに尋ねる。
「ずいぶん慣れていましたね」
夫は手袋を外しながら答える。
「昔、少しだけやっていたことがある」
「え?」
「学生の頃だ」
妻の目がわずかに揺れる。
「……知らなかった」
夫は淡々と続ける。
「大した話じゃない。知人に誘われてな。数年だけだ」
「どうしてやめたの?」
「忙しくなった」
短い答え。
妻は結を下ろし、夫の隣に立つ。
「あなたの知らない時間が、まだたくさんあるのね」
夫は妻を見る。
「必要なことは話している」
「でも、もっと知りたい」
少しだけ、甘えるような声。
「あなたの過去も、好きだったことも、楽しかったことも。少しずつでいいから教えてほしいです」
夫は一瞬、言葉を選ぶ。
「……聞きたいのか」
「ええ」
「退屈だぞ」
「あなたのことなら退屈なわけないわ」
結が割って入る。
「パパ、むかしも王子さまだった?」
夫は珍しく小さく笑う。
「そんな大層なものじゃない」
妻はじっと見つめる。
「でも、今も昔も、私には十分王子様よ」
夫は視線を逸らし、軽く咳払いする。
「……帰るぞ。腹が減った」
「照れてるー!」
結がはしゃぐ。
妻はくすくす笑う。
「帰りの車で、少しだけ続きを聞かせて?」
夫はエンジンをかけながら言う。
「少しだけだ」
「約束?」
「約束だ」
夕暮れの牧場を後にしながら、
妻は思う。
――まだ知らないあなたがいる。
それを少しずつ知っていけることが、何より嬉しい。
後部座席では、結が嬉しそうに言った。
「パパ、またのろうね!」
「また来る」
家族三人の穏やかな休日は、
少しだけ新しい一面を知った日として、静かに心に刻まれた。




