夫の回想⑩
そして、現在。
ケーキ屋の扉を押すと、甘い匂いがふわりと広がった。
「パパ、いちごのショートケーキ!」
ショーケースに張りつく結。
白い生クリームに、艶やかな赤。
「ああ、それにしよう」
俺は店員に告げる。
「いちごのショートを四つ」
結が首を傾げた。
「四つ?」
「ママの分と、佐川の分」
結は嬉しそうに頷いた。
「佐川、甘いの好きだもんね!」
……ああ。
好きだと言ったことはないはずだ。
だが、食後に小さく目を細めていたのを、俺は見ている。
箱を受け取る。
軽いはずなのに、妙に重みを感じた。
佐川の“元夫”――あの男の顔が一瞬よぎる。
消えない。
あいつが背負わせたもの。
保証人にされた妻。
逃げた背中。
俺の中の怒りは、今も冷たいままだ。
きっと妻も同じだろう。
だが――
佐川自身は違う。
黙々と働き、
誰よりも早く起き、
誰よりも遅く休む。
元夫の借金を、少しずつ、少しずつ返そうとしている。
逃げなかった。
その姿勢だけは、認めている。
「パパ、帰ろう!」
結が俺の手を引く。
「そうだな」
俺たちはマンションへ向かった。
エントランスのガラスに、俺と結の姿が映る。
大きな手と、小さな手。
エレベーターの上昇音がやけに静かだ。
扉が開く。
玄関の向こうから、柔らかな声。
「おかえりなさい」
――妻だ。
淡い色の部屋着。
穏やかな微笑み。
あの頃の、硬い表情ではない。
結が駆け寄る。
「ママ!いちごのケーキ!」
「まあ、嬉しい」
妻が俺を見る。
「あなたが?」
「ああ。散歩のついでだ」
それだけ言う。
佐川が奥から現れる。
「お帰りなさいませ」
以前よりも、声に張りがある。
俺は箱を差し出す。
「佐川、お前の分もある」
一瞬、驚いた顔。
「……ありがとうございます」
その目は、ほんのわずかに潤んでいた。
借金はまだ終わらない。
恨みも消えない。
だが。
今、ここにいるのは
裏切らなかった女だ。
ダイニングにケーキを並べる。
結がはしゃぐ。
「いただきます!」
フォークが生クリームに沈む。
妻が笑う。
「甘いわね」
「うん!」
佐川は静かに一口食べ、目を伏せる。
「……美味しいです」
俺はその光景を見つめる。
守る。
この笑顔を。
妻の笑顔を。
結の無邪気さを。
そして、償おうとする者の居場所を。
過去は消えない。
だが、未来は選べる。
俺はコーヒーを口に含みながら、静かに決める。
これからも、この家を守る。
何があっても。
この笑顔を、絶対に失わせない。




