夫の回想⑨
夜。
リビングの灯りを落とし、ひとりソファに座る。
窓の外には、いつもと変わらない東京の光。
佐川は消えた。
家は崩れ、信用は失われ、名前は地に落ちた。
胸が晴れたかと問われれば――違う。
残ったのは、静かな空虚と、もう一つの感情。
自己嫌悪。
佐川は卑劣だった。
彼女を恐怖に陥れた。
許せない。
だが。
俺は本当に違うのか?
彼女を会社から追い出したのは誰だ。
行き場を奪い、このタワマンに縛りつけたのは誰だ。
「……俺だ」
小さく呟く。
好きだった。
好きで好きで仕方なかった。
だがその感情は、純粋ではなかった。
守りたいよりも、手に入れたいが先にあった。
そばにいてほしいよりも、離したくないが強かった。
その結果、彼女の人生を変えた。
選択肢を狭めた。
俺は彼女を守ったと言いながら、
最初に奪ったのは俺自身だ。
佐川を裁いたつもりで、
自分の罪から目を逸らしていないか。
拳を握る。
痛みが走る。
だが、それが必要だ。
逃げないために。
その時、背後から足音がする。
振り向くと、彼女が立っていた。
「……起きてたんですか」
「ああ」
彼女はゆっくり隣に座る。
自然な距離。
以前のような緊張は、もうない。
「難しい顔してますね」
小さく笑う。
その笑顔に、胸が締まる。
「俺は……」
言葉を探す。
「お前の人生を変えた」
彼女は黙って聞いている。
「独占欲だった。最初は」
逃げずに言う。
「それでも今は違う」
彼女の手を取る。
今度は、支配ではなく、確認のように。
「幸せにしたい」
自分のためではなく。
彼女のために。
「それが、俺の責任だ」
彼女はしばらく俺を見つめる。
そして、静かに言う。
「私がここにいるのは、あなたに縛られてるからじゃないです」
驚いて顔を上げる。
「今は、自分で選んでいます」
その言葉が、深く刺さる。
救いのように。
「あなたは、たしかに間違えた」
まっすぐな声。
「でも、今は違う」
彼女は微笑む。
「これからを、どうするかです」
胸の奥で、何かがほどける。
佐川を憎む気持ちは消えない。
だが、自分の罪も消えない。
だからこそ。
逃げずに、償う。
彼女を“所有”するのではなく、
彼女と“歩く”。
その選択を、これから何度でも重ねる。
俺は彼女の手を、そっと強く握る。
「一緒に、幸せになろう」
命令ではない。
願いでもない。
約束だ。
彼女は、穏やかに頷いた。
この笑顔を守る。
だが今度は、
奪うことでではなく、
支えることで。




