夫の回想⑧
夜景を背に、彼女が微笑んだあの夜。
その笑顔を手に入れた瞬間、俺の中で何かが決まった。
――守る。
そのためなら、何でもする。
⸻
数日後。
俺はいつも通りの顔で佐川と向き合っていた。
「二億、出そう」
佐川の目が細くなる。
「さすがだ。話が早い」
「条件は資料通りでいいな?」
「ああ、保証もつける」
「誰だ」
「妻だよ。問題ない」
薄く笑うその顔を、俺は静かに見つめる。
心の奥では、氷のように冷えた計算が進んでいた。
二億は端金だ。
だが、ただ貸すつもりはない。
資金の流れ、取引先、提携条件。
すべて精査し、表向きは問題ない形で整える。
だが。
肝心な部分にだけ、致命的な“穴”を残す。
直接的な違法ではない。
だが、成功の道は限りなく細く。
失敗の可能性は、確実に膨らむ。
俺は投資で財を築いた。
成功する道も、破綻する道も、知り尽くしている。
「期待しているよ」
佐川は満足げに言う。
俺は微笑む。
「もちろんだ」
その裏で、別の手を打つ。
業界内の信用。
流通の要所。
資金の回転。
静かに、確実に、包囲する。
直接殴る必要はない。
立っていられなくすればいい。
⸻
数ヶ月後。
報告が入る。
「資金繰りが厳しいようです」
「そうか」
「追加融資の打診があるかと」
「応じない」
即答。
さらに数週間。
破綻の兆候。
取引停止。
信用低下。
そして――
「返済不能です」
報告は淡々としていた。
保証人は、妻。
佐川本人は。
「……行方をくらましたとのことです」
予想通りだ。
責任を背負う覚悟など、最初からない男。
俺は窓の外を見る。
街はいつも通り光っている。
胸の奥に、怒りはない。
あるのは、冷たい決意だけだ。
彼女を震えさせた男。
その家が崩れようと、知ったことではない。
俺は直接手を下していない。
ただ、選択肢を狭めただけだ。
彼が、自分で踏み外した。
そういう形にした。
⸻
その夜。
彼女はリビングで本を読んでいた。
柔らかい灯りの下。
穏やかな表情。
俺が近づくと、顔を上げる。
「おかえりなさい」
その一言で、すべてが報われる気がした。
俺は彼女の隣に座る。
指先に触れる。
彼女は自然に寄り添う。
あの夜の震えは、もうない。
それだけで十分だ。
俺は思う。
彼女を守るためなら、手段は問わない。
正しさよりも。
倫理よりも。
優先するものがある。
それが彼女の笑顔だ。
俺は彼女の髪に触れる。
柔らかい。
温かい。
「……どうしました?」
彼女が微笑む。
俺も微笑み返す。
「いや」
ただ、思うだけだ。
この笑顔を奪う者がいるなら。
何度でも、排除する。
どんな代償を払ってでも。
それが俺の選んだ道だ。




