夫の回想⑦
翌朝。
キッチンに立つ彼女の背中は、どこか小さく見えた。
エプロンの紐を結ぶ手つきも、いつもよりわずかに遅い。
「……おはようございます」
振り向いた顔は、整えてはいるが、覇気がない。
「無理をするなと言ったはずだ」
「大丈夫です。これくらいは」
その“これくらい”が、どれほど無理を含んでいるのか分かる。
俺はダイニングチェアに腰掛けながら、決めていた。
――今日は、仕事を入れない。
「今日は外に出ない」
「……?」
「一日、ここにいる」
彼女は一瞬だけ目を上げる。
何か言いかけて、やめた。
朝食は静かに進んだ。
食器の触れ合う音だけが響く。
だが昨日とは違う。
同じ空間にいることが、ただの命令ではなく、意思になっている。
食後、コーヒーを飲みながら俺は言った。
「夕方、少し走らないか」
「……走る?」
「ドライブだ。気分を変えたい」
彼女はカップを持ったまま、考える。
怖さは、まだ消えていないはずだ。
外に出ることも、躊躇うだろう。
「……」
「お前が嫌なら、すぐ戻る」
沈黙のあと、彼女は小さく頷いた。
「……行きます」
その一言が、胸に落ちる。
⸻
夕方。
俺が運転席に座る。
彼女は助手席。
シートベルトを締める音がやけに大きく響く。
エンジンをかけ、街へ滑り出す。
夜が近づき、街灯が灯り始める。
しばらくは無言。
だが、その沈黙は昨日の重さとは違う。
「……昨日は」
彼女が口を開く。
俺は視線を前に向けたまま答える。
「俺がいることだけ覚えていろ」
ハンドルを握る手に力が入る。
「ずっと好きだった」
言葉が、自然に出た。
彼女がこちらを見る気配がする。
「会社で初めて会った日からだ」
「……」
「お前が俺の教育係で、書類の整理を教えてくれた時」
少し笑う。
「優しかった」
「……覚えてるんですね」
「忘れるわけがない」
信号待ちで車が止まる。
横目で彼女を見る。
赤いワンピースが、夜の街灯に柔らかく照らされている。
「年上だから無理だと言われた」
彼女が息を飲む。
「あの時、引けばよかった」
「……」
「でも無理だった」
正直に言う。
「六歳なんて関係ない。俺には」
ハンドルを握り直す。
「好きなんだ」
車は静かな海沿いの道に入る。
街の喧騒が遠のく。
「これからも一緒にいたい」
彼女の手が、膝の上で重なる。
「……私は、まだ気になります」
小さな声。
「六歳、違うこと」
「気にするなと言っても、気にするだろうな」
俺は少し笑う。
「だが俺は気にしない」
まっすぐ前を見たまま、言う。
「お前が好きだ」
車をゆっくり停める。
夜景が広がる場所。
エンジンを切る。
静寂。
彼女の方を向く。
「好きだ」
はっきりと。
「結婚してくれ」
彼女の瞳が揺れる。
驚きと、戸惑いと、そして――
ほんの少しの嬉しさ。
「……ずるいですね」
小さく笑う。
「こんな時に」
「今しかないと思った」
沈黙。
風の音。
やがて、彼女が微笑む。
躊躇いを含んだ、けれど確かな笑顔。
「……私で、いいんですか」
「お前がいい」
即答だった。
彼女はゆっくり頷く。
「……お願いします」
その言葉が落ちた瞬間、胸の奥が熱くなる。
ずっと欲しかった。
命令でも、支配でもない。
この笑顔。
この頷き。
俺は助手席の彼女の手を、そっと握る。
強くではなく、確かめるように。
彼女は握り返す。
夜景の向こうに、未来が広がっているように見えた。
俺は思う。
この笑顔を、守る。
今度こそ。
何よりも。




