夫の回想⑥
「今日は、もう何もしなくていい」
彼女の肩を支えながら、俺は低く言った。
「休め」
彼女は目を伏せたまま、小さく頷く。
「……でも、夕飯の準備を」
「必要ない」
少し強く言い切る。
「俺が手配する」
彼女はそれ以上、何も言わなかった。
ベッドに座らせ、毛布を肩までかける。
その仕草が、ひどくぎこちない自分に気づく。
俺は部屋を出た。
スマホでデリバリーを頼む。
普段なら気にも留めない店名やメニューを、やけに時間をかけて選んでいた。
温かいものがいい。
刺激の強くないもの。
届いた料理を受け取り、袋を持って彼女の部屋の前に立つ。
今度は迷わずノックする。
「……入るぞ」
返事は小さい。
部屋に入ると、彼女はベッドの端に座っていた。
目元はまだ赤い。
俺はテーブルに料理を並べる。
「少しでいい。食べろ」
彼女は箸を持つが、手が震えている。
俺は椅子を引き、向かいに座る。
「無理しなくていい」
沈黙。
数口だけ、ゆっくり口に運ぶ。
その様子を見ていると、胸が締めつけられる。
やがて、彼女がぽつりと呟く。
「……もう、ここにはいられません」
その言葉に、呼吸が止まる。
「怖いです」
震える声。
「また、あの人が来たら……」
想像だけで体が強張るのがわかる。
「私、ここにいる意味も……」
そこまで言って、言葉を飲み込む。
俺は立ち上がる。
気づけば、彼女の前にいた。
「行くな」
自分でも驚くほど、必死な声だった。
彼女が目を見開く。
俺は彼女を抱きしめる。
今度は、ためらわない。
「行かないでくれ」
胸の奥の本音が、抑えきれずに溢れる。
「今度は守る」
言い切る。
「二度と、あんな思いはさせない」
腕に力が入る。
「そばにいてほしい」
情けないと思う。
支配ではなく、懇願。
命令ではなく、願い。
「……俺に、もう一度だけ機会をくれ」
彼女の呼吸が、胸元で震える。
しばらく沈黙が続く。
やがて。
小さく。
本当に小さく。
彼女が頷いた。
俺のシャツを、そっと掴む。
その仕草だけで、胸の奥が熱くなる。
「……信じて、いいんですか」
かすれた声。
「いい」
迷わず答える。
「必ず守る」
彼女はもう一度、小さく頷く。
震えは、まだ完全には止まっていない。
だが、さっきよりも、ほんの少しだけ落ち着いている。
俺は彼女を抱きしめたまま、目を閉じる。
守ると言った。
今度こそ。
その言葉を、初めて本気で、自分に刻んだ。




