夫の回想⑤
扉の前で、呼吸が浅くなる。
――ノック。
拳を上げる。
一度、止まる。
それでも、叩いた。
コン、コン。
「……」
返事がない。
「……入るぞ」
沈黙。
胸の奥が冷える。
ドアノブを回す。
鍵はかかっていなかった。
ゆっくり開ける。
部屋は暗い。
カーテンは閉まり、外の夜景も遮られている。
ベッドの上。
彼女がうずくまっていた。
肩が小刻みに震えている。
声を押し殺した泣き声。
胸が、締め付けられる。
「……」
名前を呼びそうになって、止める。
俺は静かに近づく。
「……大丈夫だ」
それしか言えなかった。
彼女が顔を上げる。
目は赤く、頬は濡れている。
恐怖と、屈辱と、どうしようもない無力感。
それが、全部混ざった目。
俺のせいだ。
この状況を作ったのは俺だ。
それでも、体は勝手に動いた。
そっと、彼女を抱き寄せる。
最初、彼女の体が強張る。
だが抵抗はしない。
ただ、震えている。
「もう……大丈夫だ」
何が大丈夫だ。
守れていないくせに。
それでも、繰り返す。
「俺がいる」
彼女の手が、かすかに俺のシャツを掴む。
それだけで、胸が痛い。
しばらく、そのまま。
泣き声が少し落ち着くのを待つ。
やがて、震えが弱くなる。
「……何があった」
できるだけ穏やかに。
彼女は目を伏せる。
唇が震えている。
「……触られました」
声がかすれている。
「肩と……腕と……」
言葉が途切れる。
それ以上は言えないらしい。
想像は、できてしまう。
頭の奥で何かが弾ける。
怒りが、視界を赤く染める。
だが今、ぶつける相手はここにいない。
目の前にいるのは、傷ついた彼女だ。
俺はもう一度、彼女を抱きしめる。
さっきより、少し強く。
「……すまない」
思わず漏れた言葉。
彼女がわずかに顔を上げる。
「お前を一人にした」
本当はそれだけじゃない。
こんな立場に置いたこと。
逃げ場を奪ったこと。
全部。
だが、全部は言えない。
「……怖かったです」
小さな声。
その一言で、胸が抉られる。
俺は彼女の背中に手を回す。
ゆっくり、一定のリズムで撫でる。
「もう、あいつはここに来ない」
低く、確信を込めて。
彼女は何も言わない。
ただ、俺の胸元に顔を預けたまま、静かに息をしている。
温もりが、伝わる。
こんなにも近いのに。
こんなにも壊れやすい。
俺は守ると誓いながら、
守れなかった。
その矛盾が、胸の奥で鈍く疼く。
それでも今は。
ただ、抱きしめるしかなかった。




