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雨のち晴れ  作者: ありり
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夫の回想④

インターホンが鳴ったのは、夕方だった。


「佐川様がお見えです」


彼女の声は、いつも通り淡々としていた。


「通せ」


短く答える。


玄関で交わされる挨拶。


「本日はお時間ありがとうございます」


「どうぞ、こちらへ」


彼女は佐川をリビングへ案内する。


背筋を伸ばし、一定の距離を保ち、必要以上の感情は乗せない。


俺はソファに座ったままそれを見ていた。


その時、スマホが鳴る。


画面を見る。取引先。


「悪いな、急ぎの電話だ」


佐川は笑う。


「構わないよ」


俺は立ち上がり、彼女に視線を向ける。


「飲み物を出せ」


「承知しました」


電話を耳に当てながら、俺は廊下へ出る。


仕事の話は数分で終わるはずだった。


だが内容が込み入り、思ったより時間がかかる。


ふと、胸がざわついた。


理由は分からない。


ただ、妙に嫌な予感がした。


通話を終えた時、時計は十五分を指していた。


俺は足早にリビングへ戻る。


そして。


視界に入った光景に、思考が止まった。


彼女が立っていた。


髪が少し乱れ、エプロンの紐が片側ほどけかけている。


ブラウスの襟元も、わずかに歪んでいる。


指先が震えていた。


目は伏せられている。


その横で、佐川はソファにゆったり座り、脚を組んでいた。


「……どうした」


自分の声が、妙に遠い。


彼女は一瞬だけこちらを見た。


その目は――恐怖。


だがすぐに視線を落とす。


「……失礼します」


それだけ言って、足早に部屋を出ていく。


廊下に消える背中。


俺の鼓動が、耳の奥で鳴る。


「何があった」


低く、抑えた声で問う。


佐川は肩をすくめた。


「大したことじゃない。少し遊ぼうとしただけだ」


頭の中が、真っ白になる。


遊ぶ?


何を?


どこまで?


問い詰めろ。


殴れ。


今すぐ。


だが。


俺は動かない。


動けない。


ここで取り乱せば、弱みになる。


ビジネスの場だ。


俺は、冷静でいなければならない。


「……そうか」


声が低く沈む。


佐川は笑う。


「冗談だよ。少し触れただけだ。あれは面白い反応をするな」


拳を握る。


爪が食い込む。


だが顔には出さない。


「融資の話を続けよう」


自分でも驚くほど、平坦な声だった。


佐川は資料を広げ、数字を並べる。


だが。


一つも入ってこない。


彼女の震える指。


乱れた襟元。


あの目。


数字がただの記号にしか見えない。


「……どうだ?」


佐川が問う。


「……後日、改めて話を聞こう」


「慎重だな」


「当然だ」


佐川は少し不満げに資料をまとめる。


「早めに返事が欲しい」


「連絡する」


それだけ言って立ち上がる。


玄関まで送りはしない。


「今日はありがとう」


佐川の声が遠ざかる。


ドアが閉まる。


静寂。


タワマン最上階の夜景が、窓の向こうに広がっている。


だが何も見えない。


俺は立ち尽くす。


胸の奥が、黒く煮え立っている。


怒りか。


後悔か。


自責か。


全部だ。


俺が電話に出なければ。


俺が席を外さなければ。


俺が、彼女をこんな立場にしなければ。


ゆっくりと歩き出す。


廊下を進む。


足音がやけに響く。


彼女の部屋の前で止まる。


扉の向こうは、静まり返っている。


ノックは、まだしない。


ただ、立っている。


拳を握ったまま。


ここから先は、まだ――踏み込めない。

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