夫の回想③
別の日。
あの日のことを、俺は今でも鮮明に覚えている。
リビングの奥から、玄関の方が見えた。
インターホンが鳴り、彼女が応対する。
「はい、ありがとうございます」
柔らかい声だった。
会社員時代に俺へ向けていた、あの声と同じ。
玄関には若い配達員。
青いキャップ、段ボールを抱え、気さくに笑っている。
「重いので気をつけてくださいね」
「助かります。今日は暑いですね」
彼女が、微笑う。
その横顔が、やけに無防備に見えた。
俺の前では決して見せない、自然な笑顔。
胸の奥で、何かが焼ける。
――ただの世間話だ。
わかっている。
わかっているのに。
俺は立ち上がっていた。
足音をわざと強く鳴らす。
二人の間の空気が、一瞬で凍る。
「……仕事は終わったのか」
低い声。
彼女の背筋が伸びる。
「いえ、今受け取りを――」
「それは必要以上に時間をかけるものか?」
配達員が困った顔をする。
「す、すみません。すぐに――」
「お前に聞いていない」
冷たく遮る。
配達員は気まずそうに頭を下げ、足早に去った。
ドアが閉まる。
沈黙。
彼女は段ボールを抱えたまま立っている。
「……何か問題がございましたか」
感情を消した声。
その言い方が、余計に苛立つ。
「随分と楽しそうだったな」
「世間話です」
「必要か?」
「……最低限の礼儀です」
俺は一歩、近づく。
「使用人に必要なのは礼儀ではない。従順さだ」
彼女の指先が段ボールを強く握る。
「……承知しております」
その言葉が、胸を刺す。
俺は何をしている。
ただの嫉妬だ。
彼女が他人に笑うのが、許せないだけだ。
だがそれを認めたら、俺は終わる。
「次からは無駄な会話はするな」
「……はい」
「男と目を合わせるな」
一瞬だけ、彼女の目が揺れた。
怒りか、悲しみか、それとも呆れか。
「……かしこまりました」
その敬語が、壁のようだった。
俺は壁を作ったのは自分だと知っている。
優しくすればよかった。
好きだと言えばよかった。
あの時、素直に引き下がればよかった。
なのに俺は、
奪うことしかできなかった。
「……他にご指示はございますか」
感情のない声。
俺は答えない。
答えられない。
本当は言いたい。
――笑うな、じゃない。
――俺だけに笑え。
だがそれは、あまりにも子供じみている。
「……下がれ」
「承知しました」
彼女は踵を返す。
エプロンの紐が揺れる。
その背中を見ながら、俺は拳を握った。
なぜ優しくできない?
なぜ抱きしめて謝れない?
好きで好きで仕方がないのに。
好きだからこそ、奪った。
好きだからこそ、縛った。
好きだからこそ、傷つける。
歪んでいると分かっている。
それでも止められない。
彼女が他人に向けた、あの一瞬の笑顔が、
頭から離れなかった。
俺は、自分の城の最上階で、
誰よりも醜い男になっていた。




