夫の回想②
――結が生まれる前。
いや、夫婦になるよりも、もっとずっと前の話だ。
その頃から俺は、このタワマン最上階に住んでいた。
ガラス張りのリビングから見下ろす夜景は、俺の所有物のように静かに瞬いていた。
大学在学中から投資を始め、為替、株式、未公開株、海外ファンド……勝てるところにだけ張り、勝ち続けた。二十歳を過ぎる頃には、同世代が一生かけても手にできないとてつもない額を手にし、動かしていた。
卒業後は「社会勉強」と称して企業に就職した。
だが、あくまで一時的なものだった。
そこで――彼女に出会った。
「新人くん、資料の誤字、三箇所。やり直し」
淡々とした声。
俺より六歳上の先輩。教育係だった。
「……はい」
冷たい口調の裏に、さりげない気遣いがあった。
終電間際、誰もいないオフィスで。
「無理しすぎ。若いからって壊れないわけじゃない」
「俺は壊れませんよ」
「そういう人ほど壊れるの」
彼女はコーヒーを差し出した。
ブラック。俺の好みを、もう覚えていた。
その距離感が、たまらなかった。
寄り添うようで、踏み込まない。
優しいのに、線を引く。
俺は気づいた時には、落ちていた。
独立を決めた夜、告白した。
タワマン最上階の夜景を背に。
「好きです。あなたが欲しい」
彼女は、困ったように微笑んだ。
「……六歳よ?」
「関係ない」
「あなたはこれからもっと上に行く人。私は――」
「年齢が理由ですか」
「それもある。でも、一番はね」
彼女は視線を逸らした。
「あなたは、誰かを対等に愛せる人じゃない」
あの言葉は、今でも胸の奥に刺さっている。
振られた。
理由は“六歳上”だと言った。
だが、本当は俺の本質を見抜かれていた。
俺は、独占する。
共有はできない。
彼女が他の男と笑うだけで、胃の奥が焼けるようだった。
だから――
非合法な方法で、彼女を手に入れた。
彼女の勤め先に圧力をかけた。
人事に金を流し、部署を潰し、彼女の立場を失わせた。
次の就職先も、裏から潰した。
追い込んだ。
そして、差し出した。
「住み込みの使用人が必要だ」
「……冗談、ですよね?」
「本気だ」
「私が? あなたの?」
「他に誰がいる」
彼女はしばらく黙っていた。
「……最低」
「否定はしない」
それでも彼女は来た。
来るしかなかった。
最上階の玄関に立った彼女の目は、かつて俺を指導していた頃とは違っていた。
誇りを削られた目。
そこから二年。
俺は彼女に厳しく当たった。
「掃除が甘い」
「申し訳ありません」
「返事は一度でいい」
「……はい」
振られたことは、一度も口にしなかった。
言えば、負ける気がした。
彼女は黙って働いた。
朝五時に起き、夜は俺より後に寝る。
時折、窓辺で街を見下ろしている背中を見た。
自由を奪われた鳥のようだった。
それでも、俺はやめなかった。
――二年目の春。
インターホンが鳴った。
モニターに映った男を見て、記憶が引き出される。
佐川。
数回、商談で顔を合わせたことがある。
上品なスーツ、柔らかい笑み。だが目の奥は計算高い。
「お久しぶりです」
応接室で向かい合う。
「タワマン最上階とは、さすがですね」
「用件は」
無駄話は嫌いだ。
佐川は微笑んだ。
「二億、融資をお願いしたい」
彼女が紅茶を置く。
一瞬だけ、佐川の視線が彼女に向いた。
俺の胸の奥が、ひりつく。
「……続けろ」
「我が家はご存知の通り、由緒ある家柄でして。私は婿養子ですが」
「家の威光を担保にする気か?」
「信用、ですよ」
「中身を聞こう」
二億は端金だった。
大学在学中に築いた資産は、その何十倍もある。
独立後の会社も順調だ。金には困らない。
だが、金額ではない。
「事業拡大です。新規不動産開発」
「資料は?」
分厚いファイルが差し出される。
俺は黙ってページをめくった。
佐川は穏やかな声で続ける。
「あなたほどの若さで財を築いた方は、そういない。ぜひご一緒したい」
「持ち上げるな」
「本心です」
沈黙。
彼女が部屋を出る足音が遠ざかる。
佐川はふと、低い声で言った。
「あなたは、すべてを手に入れているように見える」
「見えるだけだ」
「人は、金より厄介なものに足をすくわれる」
「何が言いたい」
「いえ。ただの感想です」
その時は、ただの営業トークだと思った。
俺はまだ知らなかった。
この二億の話が、
俺の人生を、
彼女との関係を、
決定的に変えることになるとは。
窓の外、夜景が滲んでいた。
最上階の孤独は、
まだ、静かに保たれていた。




