夫の回想①
休日の昼下がり。
見上げれば、抜けるような青空。ビルの隙間から差し込む光が、結の頬を明るく照らしていた。
小さな手が、俺の手をぎゅっと握る。
「ねぇ、パパ」
弾んだ声。
俺は視線を落とす。
「ん?」
「パパとママって、どこで出会ったの?」
不意打ちだった。
結の瞳はまっすぐで、何の含みもない。ただ純粋な好奇心。
俺は一瞬だけ空を見上げ、それから淡々と答えた。
「……今住んでいるマンションだ」
「えっ?今住んでいるところ?」
「ああ。パパは結婚する前からここに住んでた。ママは……その時、お手伝いさんだった」
できるだけ端的に。それ以上は言わない。
厳密には彼女がこのマンションの使用人になる前からの出会いだが。
結は目を丸くして、それからにこっと笑った。
「じゃあ今の佐川みたいだったんだね!」
胸の奥で、何かが小さく軋んだ。
「……まぁ、そうだな」
佐川。
その名前を聞いた瞬間、空気が変わった気がした。
俺の手の中の温もりが、やけに現実味を帯びる。
――あの頃。
広いリビング。
無機質な大理石の床。
彼女の控えめな足音。
「お帰りなさいませ」
感情を抑えた声。
俺はわざと妻.......彼女に冷たく返した。
「……そこ、埃が残ってる」
本当は気づいていた。
完璧に掃除されていることくらい。
それでも。
彼女に振られた悔しさ。
彼女を独占できない苛立ち。
自分でも持て余していた感情。
結が俺の手をぶんぶん振る。
「パパ?どうしたの?」
「……いや」
俺は思考を断ち切る。
過去は、過去だ。
「ケーキでも買って帰るか?」
「ほんと!?いちごのがいい!」
ぱっと顔を輝かせる結。
その無邪気さが、俺を現実に引き戻す。
「じゃあ競争だ。角の店まで走れるか?」
「走れるー!」
結が小さな足で駆け出す。
俺は歩幅を合わせ、少し後ろから追う。
笑い声が響く。
だが――
頭の奥では、止めたはずの映像が勝手に再生されていた。
玄関で俯く彼女。
強がる俺。
佐川の元夫の笑い声。
あの日、すべてが狂い始めた瞬間。
俺は無意識に拳を握る。
守ると決めた。
彼女の笑顔も、この小さな手も。
だが、そのために踏み越えた一線がある。
「パパ、早くー!」
振り返る結の声。
俺は静かに息を吐いた。
……あの日から、すべてが変わった。
そしてそれは、あの男......佐川が“あの話”を持ってきた日から始まる。
――いい話がある、と。
青空の下、ケーキ屋の看板が見えてくる。
だが俺の意識は、すでに過去へと沈み始めていた。




