お化けよりも、心臓が跳ねた瞬間
青空の下、観覧車がゆっくりと回っている。
ジェットコースターの歓声が遠くで響き、ポップコーンの甘い匂いが漂う休日の遊園地。
並んで歩く三人。
結が両手で父と母の手を握り、ぶんぶんと揺らす。
「パパ!ママ!はやくはやく!」
夫はいつもの落ち着いた表情で歩幅を合わせる。
「走ると転ぶぞ、結」
「だいじょうぶー!」
妻は少し微笑みながらも穏やかに言う。
「今日は一日長いんだから、そんなに急がなくてもいいのよ」
すると結の視線がぴたりと止まる。
巨大な、薄暗い建物。
入り口には血の色を模した看板。
——お化け屋敷。
結の目がきらきらと輝く。
「パパ!ママ!あれいきたい!」
妻の笑みが、ぴたりと固まる。
「……え?」
「おばけやしき!」
夫は看板を見上げ、淡々と言う。
「なるほど」
妻は小さく首を振る。
「結、あれはちょっと……ママ、怖いのは苦手なの」
「えー!ママこわいの?」
「怖いものは怖いのよ」
結は夫の手をぐいぐい引っ張る。
「パパは?パパは?」
「問題ない」
即答。
妻がじとっと夫を見る。
「あなたはそうでしょうけど……」
結は両親を交互に見て、にやりと笑う。
「じゃあいこ!」
「ちょ、ちょっと結……!」
結の勢いに押され、結局三人でチケット売り場へ。
夫が三枚購入する。
「本当に入るのね……」
妻の声は少し小さい。
夫はちらりと横目で見て、静かに言う。
「無理なら途中で出ればいい」
「そういう問題じゃないのよ……」
結はもう入り口の暗闇を覗き込んでいる。
「わあ、くらい!」
係員が低い声で言う。
「それでは、どうぞ……」
ぎい、と扉が閉まる。
中は薄暗く、ひんやりしている。
足音が響く。
「ママ、だいじょうぶ?」
「……ええ」
声が少し硬い。
夫は結の手を握ったまま、落ち着いた足取りで進む。
壁に不気味な影。
遠くから「うぅ……」といううめき声。
妻の歩幅がわずかに狭くなる。
「……演出よね」
「当然だ」
その瞬間——
天井から白い影がふわりと落ちてくる。
「わあっ!」
結が驚いて夫にしがみつく。
夫は即座に結を抱き上げる。
「大丈夫だ」
結は父の首にぎゅっとしがみつく。
「びっくりしたー!」
「もう出たのか」
夫は冷静。
結は夫の顔をじっと見る。
「パパ、ぜんぜんこわくないの?」
「怖くない」
「パパ、おばけやしきでもクールだね!」
妻が小さく息を吐く。
「あなた、本当に動じないのね……」
「驚く要素が少ない」
その時、背後から突然「ぎゃあああ!」という叫び声。
妻がびくっと肩を跳ねさせる。
「っ……!」
結がくすっと笑う。
「ママ、びっくりした?」
「してないわ」
明らかに声が上ずっている。
細い通路を進む。
床がきしむ。
突然、横の扉が勢いよく開く。
黒い人影が飛び出す。
「うわああ!」
妻が反射的に夫の腕に飛びつく。
「……!」
予想外の衝撃。
夫が一瞬よろめく。
結が目を丸くする。
「ママ!?!?」
妻は夫の胸元にしがみついたまま固まっている。
「……今のは……反則よ……」
夫は一瞬、完全に固まる。
腕の中には結。
もう片腕には妻。
「……大丈夫だ」
少しだけ声が低くなる。
結がけらけら笑う。
「パパでもびっくりした!」
「していない」
「したよー!」
妻ははっとして離れる。
「ご、ごめんなさい。つい……」
夫は咳払いをする。
「問題ない」
だが内心は——
(今のは予想外だ)
心臓がわずかに速い。
お化けではなく、妻の突然の抱きつきに。
結はにやにやしている。
「パパ、かおちょっとあかいよ?」
「気のせいだ」
「うそー!」
妻は視線を逸らす。
「……早くゴールしましょう」
その後も揺れる床、突然の風、鏡に映る影。
結は夫に抱かれながら実況。
「つぎなにでるかな!」
「右から来る可能性が高い」
「パパすごーい!」
妻は夫の服の裾をさりげなく掴んでいる。
夫はそれに気づきながらも何も言わない。
やがて出口の光が見える。
「でぐちだ!」
扉を抜けると、明るい空。
三人同時に息を吐く。
妻は額に手を当てる。
「……疲れた」
結は元気いっぱい。
「たのしかった!もういっかい!」
「それは却下だ」
夫即答。
「ママむり!」
妻も即答。
結は両親を見上げて笑う。
「ママ、こわかったの?」
「……少しだけ」
夫は結を下ろし、両手を握る。
「だが、三人なら問題ない」
結が誇らしげに言う。
「パパつよいもんね!」
妻は夫をちらりと見る。
「……強いわね。本当に」
だがその横顔は少しだけ赤い。
夫は平静を装いながらも思う。
(お化けよりも、あの抱きつきの方が危険だ)
結がまた二人の手を引く。
「つぎはジェットコースター!」
「それは結だけにしてほしい」
「あなたも苦手だったわね?」
「……否定はしない」
三人の笑い声が、遊園地の歓声に溶けていく。
怖さと緊張。
そして、少しのときめき。
休日の一ページは、こうしてまた増えていくのだった。




