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雨のち晴れ  作者: ありり
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愛と所有の境界線⑥

月明かりが、静かな部屋を満たしている。


夫の手を握ったまま、妻は視線を落とし、ゆっくりと言葉を続けた。


「私は……あなたに、感謝と愛情しかありません」


夫はわずかに眉を動かす。


「感謝、だと?」


「はい」


その声は揺れていない。


「まだ私が、あなたの使用人だった頃のこと、覚えていますか」


夫の表情がわずかに硬くなる。


「……佐川の、元夫の件か」


妻は小さくうなずく。


あの夜の記憶。


屈辱的な言葉と行動。


「私は、何も言えませんでした」


妻の指先が、かすかに震える。


「怖くて、悔しくて……でも立場上、耐えるしかないと思っていました」


夫の拳が、無意識に握られる。


「あの時、あなたはすぐに私を抱き寄せてくれました」


低く、静かな声で。


『もういい』


そう言って。


相手を排除し、守り、そして何より——


自分を“使用人”ではなく、一人の人間として扱った。


「あなたは、私の前に立ってくれました」


妻は夫を見つめる。


「そして、その後……私を妻として迎えてくれた」


夫は息を詰める。


「あれは……」


「義務ではありませんでしたよね」


「……違う」


「同情でもありませんでしたよね」


「違う」


「愛してくれていたから、ですよね」


その問いに、夫はゆっくりとうなずく。


「ああ」


妻の瞳がやわらかく潤む。


「私は、あの頃……人の心を失いかけていました」


「……」


「誰かに期待することも、笑うことも、怖くなっていました」


夫の胸が締めつけられる。


「でもあなたは、そんな私を、ありのまま受け入れてくれました」


命令することもあった。


厳しくすることもあった。


だが、決して見捨てなかった。


「愛し続けてくれました」


静かな声。


「無表情な私にも、笑えない私にも」


妻は、そっと微笑む。


「結を授かったときも……あなたは真っ先に私を抱きしめてくれましたね」


夫の喉がかすかに鳴る。


『守る』


あのとき、迷いなく言った。


「あなたは、私も、結も、ずっと守ってくれています」


妻の手が、夫の頬に触れる。


「だから、私はあなたの世界にいることを選んでいる」


自由がないのではない。


守られているという安心の中で、自ら選んでいる。


「いつも優しくしてくれて、ありがとう」


夫の視線が揺れる。


「いつも愛してくれて、ありがとう」


その言葉は、重く、まっすぐに胸へ落ちる。


「私は、あなたの妻であることが誇りよ」


静かな波音。


月の光。


夫の中で、何かが大きく揺れる。


「……俺は」


声が低く震える。


「お前を縛っていると、思っていた」


妻は首を横に振る。


「縛られていません」


「俺は、強く出ることもある」


「知っています」


「命令のように言う」


「それも、あなたらしい」


そして、柔らかく笑う。


「でも、その奥にある愛情を、私は知っています」


それ以上、言葉はいらなかった。


夫は立ち上がる。


そして、妻を強く引き寄せた。


ぎゅっと。


ためらいなく。


「……」


言葉にならない感情が、腕に込められる。


妻はその胸に頬を預ける。


拒まない。


むしろ、両腕を背中に回す。


「離さない」


低く、はっきりとした声。


「はい」


「お前は、俺の妻だ」


「はい」


「だが——」


夫は一瞬、言葉を探す。


「選んで、俺の隣にいるんだな」


妻は胸元で小さくうなずく。


「はい。私が選んでいます」


抱きしめる腕に、さらに力がこもる。


独占ではなく。


確認。


確信。


守るべき存在ではなく、共に立つ存在として。


夜の海は静かに光っている。


二人の呼吸が重なり合い、温度が溶けていく。


愛情の形は一つではない。


だが、この形は——


確かに、二人だけのものだった。

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