愛と所有の境界線④
翌週、土曜日の夕方。
玄関ホールに、少しだけ特別な空気が流れていた。
妻は落ち着いた赤のワンピースに身を包み、小さなバッグを手にしている。
夫はジャケットを羽織り、車のキーを指先で回していた。
「ママ、ほんとにおとまり?」
結が不安と期待の混じった目で見上げる。
妻はしゃがみ、結の頬に触れる。
「うん。一晩だけね。すぐ帰ってくるわ」
「おみやげは?」
「もちろん。結が好きな甘いもの、探してくるね」
「やったー!」
結は満面の笑みを浮かべ、それから佐川の手をぎゅっと握った。
「さがわとふたりきり、はじめてだね!」
佐川は一瞬、言葉を失う。
「……はい。結お嬢様と二人きりでございます」
「いっぱいあそぼうね!」
その無邪気な声に、佐川の目がほんのわずかに潤む。
「はい。精一杯、お相手いたします」
夫はその様子を静かに見ていた。
——結も、ちゃんと前を向いている。
妻が立ち上がる。
「いい子にしているのよ?」
「うん!」
「佐川、頼む」
「お任せください、旦那様」
深く一礼。
夫は妻の腰に軽く手を添え、外へ促す。
エレベーターが閉まる直前、結が大きく手を振る。
「いってらっしゃーい!」
その声が、静かなホールに残った。
***
地下駐車場。
今日は運転手をつけていない。
夫自身がハンドルを握る。
エンジンが静かにかかる。
夜へと向かう街の灯りが、フロントガラスに映り込む。
しばらく沈黙。
やがて妻が、そっと言う。
「あなたが運転するのね」
「ああ」
「嬉しい」
夫は横目で妻を見る。
シートベルトをきちんと締め、両手を膝に置き、少しだけ頬を緩めている。
「少し昔を思い出しました」
夫はわずかに眉を上げる。
「結婚する前。まだ私があなたの使用人として働いていた頃、あなたが急に夜景を見に連れて行ってくださったこと」
「……あったな」
「あの時も、あなたが運転してくれて」
妻は窓の外を見つめる。
流れる光が、横顔を淡く照らす。
「今日、すごく嬉しいです」
その言葉は、静かで、まっすぐだった。
「結と離れるのは少し寂しいけれど……」
一拍置いて。
「あなたと二人きりの時間は、やっぱり特別です」
ハンドルを握る夫の指に、わずかな力が入る。
——嬉しい、か。
無理をしている様子はない。
本心だ。
胸の奥にあった緊張が、少しほどける。
「嫌ではないのか」
思わず聞いてしまう。
妻は首を傾げる。
「何が?」
「泊まりだ」
「どうして嫌になるんですか?」
小さく笑う。
「あなたと一緒なら、どこでも安心です」
その言葉に、夫は視線を前に戻す。
心臓の鼓動が、少し落ち着く。
——拒まれていない。
それだけで、こんなにも安堵するのか。
高速道路に乗る。
街の灯りが遠ざかり、やがて海沿いの道へ。
遠くに、月明かりに照らされた水面が見える。
「海……」
妻が小さく息をのむ。
「近県に、こんな場所があるなんて」
「ホテルを予約してある。海が見える部屋だ」
「ディナーも?」
「ああ」
妻は両手を胸元で重ねる。
「まるで、デートみたい」
「……デートだ」
短く言うと、妻はふっと笑う。
「じゃあ今日は、ちゃんと“恋人”みたいに過ごしますね」
その言葉に、夫の胸がわずかに熱を帯びる。
二人きりの空間。
エンジン音と、静かな音楽。
助手席の妻の体温。
この距離が、心地いい。
——今なら、話せるか。
いや、まだだ。
ホテルに着いてから。
逃げ場のない場所で。
きちんと、向き合う。
だが今は。
ただ、この時間を感じていたい。
妻がそっと言う。
「こうして隣にいるだけで、安心します」
夫はわずかに息を吐く。
「俺もだ」
その一言に、妻は少し驚き、そして柔らかく微笑んだ。
夜の海へ向かう車は、静かに走り続ける。
まだ、本当の話はしていない。
だが、二人きりの空気は、確かに心地よかった。




