愛と所有の境界線③
書斎の扉を開け、リビングへ向かう。
本音を伝える、と決めたばかりの胸はまだ落ち着かない。
だが——
「パパっ!」
弾んだ声が飛び込んできた。
昼寝から目覚めた結が、リビングのラグの上で積み木を並べている。頬はまだ少し赤い。
「見て見て!おしろつくったの!」
「……上出来だな」
自然と口元が緩む。
キッチンでは、妻が佐川と並んでいる。
妻が鍋をかき混ぜ、佐川がサラダを盛り付ける。
「結お嬢様、塔が少し傾いておりますよ」
「えー?ほんとだ!」
「ここを支えれば安定します」
「わあ、できた!」
穏やかな光景。
家族の音。
この空気の中で、重い話を切り出すのは違う。
——今じゃない。
夫は一瞬立ち止まり、そして静かに言った。
「佐川、少しいいか」
佐川はすぐに姿勢を正す。
「はい、旦那様」
「書斎へ」
「承知しました」
妻は一瞬こちらを見るが、何も言わない。
ただ「結、もうすぐご飯よ」と声をかける。
書斎。
扉が閉まる。
佐川は静かに立ったまま、指示を待つ。
「翌週の土曜だが」
「はい」
「夕方から翌日にかけて、結を任せたい」
佐川のまなざしがわずかに動く。
「奥様とお出かけでございますか」
「泊まりだ」
短い沈黙。
佐川は深く頭を下げる。
「承知いたしました。結お嬢様のお世話はお任せください」
「夕食、入浴、就寝、翌朝の支度まで頼む」
「はい。かしこまりました、旦那様」
佐川は一瞬だけ、夫の顔を見た。
「奥様と……お話でございますか」
鋭い。
夫は目を細める。
「余計な詮索は不要だ」
「失礼いたしました」
だが声色に非難はない。ただ確認。
夫は少しだけ視線を逸らし、淡々と続ける。
「今回の件は給料に反映させる。特別手当をつける」
佐川は首を横に振る。
「そのようなお気遣いは」
「命令だ」
はっきりとした声音。
佐川はすぐに背筋を伸ばす。
「……承知いたしました」
「完璧に頼む」
「はい、旦那様」
短いやり取り。
だが、その中に確かな決意があった。
——逃げない。
その夜。
寝室。
結はすでに眠り、部屋は柔らかな間接照明だけが灯っている。
妻はドレッサーの前で髪をほどいていた。
鏡越しに、夫の視線に気づく。
「どうしました?」
夫はベッドの端に腰を下ろし、まっすぐ言った。
「翌週土曜の夕方から、泊まりで出かける」
妻の手が止まる。
「……え?」
「二人でだ」
静かな声だが、揺らぎはない。
「結は佐川に任せる」
妻は振り返る。驚きがそのまま表情に出ている。
「泊まり、で?」
「ああ」
「どこへ……?」
「それは当日まで言わない」
少しの沈黙。
妻は戸惑いながらも、すぐに姿勢を整える。
「……承知しました」
その返事は、いつも通り素直だ。
夫はその従順さに、胸の奥がまたざわつく。
「予定は空けておけ」
命令に近い言い方。
妻はわずかに目を伏せる。
「はい。あなたの予定を最優先にいたします」
反発も、疑問も、ほとんどない。
ただ受け入れる。
その姿が、愛おしく、そして苦しい。
「……嫌か?」
思わず漏れた問い。
妻は小さく目を見開く。
「いいえ。あなたと二人で出かけるのは、久しぶりで……少し、嬉しいです」
その言葉は、作り物ではない。
ほんのりと頬が柔らぐ。
「結は……寂しがるかもしれませんが」
「一晩だ」
「はい」
再び静寂。
夫は妻を見つめる。
この人は、俺の一言で予定を空ける。
俺の命令を、疑わない。
それを当然のように受け入れる。
——だからこそ。
泊まりがけで、時間を取る。
逃げずに話す。
嫉妬も、支配も、自分の弱さも。
すべて。
「準備しておけ」
最後にそう言い切る。
妻は静かにうなずく。
「はい、あなた」
その呼び方が、胸に重く落ちる。
来週土曜。
二人きりの時間が、始まる。




