愛と所有の境界線②
書斎の扉を閉めたまま、夫は椅子の背にもたれた。
静かだ。
防音の効いた空間は、外の生活音をほとんど遮断している。
それでも、かすかに鍋の触れ合う音が聞こえた気がした。
——あいつは、今も何も知らない顔で、夕食の準備をしている。
胸の奥がざわつく。
嫉妬。
独占欲。
支配欲。
そして、それを自覚してしまった後ろめたさ。
「……俺は」
低く、誰もいない空間に声が落ちる。
さっき玄関で交わされた、ほんの数十秒の会話。
ただの礼儀だ。
ただの社会的なやり取りだ。
それなのに、あの瞬間、自分は苛立った。
——笑うな。
——俺以外に。
そんな衝動が、確かにあった。
そして同時に思い出した。
結婚当初、いや、もっと前からだ。
彼女がまだ“使用人”だった頃。
運転手と世間話をしただけで
「必要以上に話すな」
秘書の相馬と仕事の確認をしていただけで、
「余計な会話はするな」
と冷たく言った。
彼女は、そのたびに素直にうなずいた。
「申し訳ありません。以後気をつけます」
一度も反論しなかった。
一度も、「なぜですか」とは言わなかった。
その従順さが、当時は心地よかった。
——俺だけを見ていればいい。
それが当然だと、思っていた。
だが今、冷静に考えると。
彼女の世界は、あまりにも狭い。
自分。
結。
佐川。
両親。
それだけ。
友人はいない。
買い物に出かけても、必要最低限の会話しかしない。
彼女は、社交的な人間だったはずだ。
笑うことが好きで、人に気を配るのが自然にできる人だった。
それを、俺が削ってきた。
「……良くはない」
はっきりと、自覚する。
だが、次の瞬間。
それでも——
これからも、自分に従ってほしい。
その思いが、消えない。
矛盾している。
理解しているのに、手放せない。
机に置いた拳に力が入る。
——一度、話してみるか。
思考が、そこに辿り着く。
正直に言ったらどうなる。
「他の男と話すと、嫉妬する」
「俺はお前を縛っている」
「それでも、縛り続けたいと思っている」
そんな本音を、ぶつけたら。
彼女はどうする。
きっと否定しない。
きっと言うだろう。
「私はあなたの妻ですから」
「あなたが望むなら」
あの穏やかな顔で。
受け入れるだろう。
——受け入れる、気がする。
それが、怖い。
彼女は優しい。
従順だ。
だからこそ、俺の歪みも飲み込む。
それでいいのか。
それで、本当にいいのか。
もし。
もし話したことで、彼女が初めて本音を言ったら。
「少し、自由がほしい」
「友達と会いたい」
「誰と話すかを制限されたくない」
そう言われたら。
俺はどうする。
想像した瞬間、胸が締め付けられる。
自由になりたい、と言われたら。
それを許せるか?
許せない。
反射的に、そう思ってしまう。
だが。
それを押さえつけ続けたら、どうなる。
いつか、彼女の中で何かが壊れるかもしれない。
ある日突然、静かに離れていくかもしれない。
従順であることと、幸せであることは、同義ではない。
「……このままでは、いけない気がする」
自分で言葉にして、はじめて重みがのしかかる。
逃げるように書斎に閉じこもるのは簡単だ。
見ないふりをするのも簡単だ。
今まで通り、何も言わず、何も変えず、彼女を囲い込むこともできる。
だが、それでは。
自分は一生、この黒い感情に縛られ続ける。
そして彼女も。
椅子から立ち上がる。
窓の外を見る。
広がる都市。
人は自由に行き交っている。
自分は、その自由を、最も近い存在から奪っている。
「……一度、話そう」
低く、しかしはっきりとした声。
逃げない。
感情をごまかさない。
嫉妬も、独占欲も、全部認めた上で。
その上で、どうするかを決める。
——壊れるかもしれない。
——だが、壊れない可能性もある。
ドアノブに手をかける。
ほんの一瞬、躊躇する。
それでも。
「……話す」
決心は、固まった。
扉を開ければ、いつもの穏やかな家族の空気がある。
その中へ、自分の本音を持って、踏み出す覚悟を決めた。




