愛と所有の境界線①
休日の午後。
リビングにはやわらかな陽が差し込み、高層階から見える街並みが白く霞んでいた。
娘の結は、たっぷり遊んだ反動で、今は寝室でぐっすりと昼寝中だ。
浴室からは、一定のリズムで水音が響く。
メイドの佐川が、黙々とタイルを磨いている音だった。
キッチンでは、エプロン姿の妻が包丁を握っている。白いブラウスに落ち着いた色のエプロン。髪は低くまとめられ、動くたびに耳元が揺れる。
ソファでは、夫が足を組み、タブレットに視線を落としていた。
——静かな、整った、完璧な休日。
ピンポーン。
インターホンの音が、穏やかな空気を小さく震わせた。
「はい、今出ます」
妻がコンロの火を弱め、手を拭きながら玄関へ向かう。
夫は無意識にタブレットから視線を上げた。
玄関ドアが開く。
配達員の青年が、段ボールを抱えて立っていた。
「お荷物です」
「ありがとうございます。忙しい時期ですよね。毎日、本当にお疲れさまです」
妻の声は、やわらかく、自然だった。作ったものではない。心からの労い。
配達員は少し驚いたように目を丸くし、それから照れたように笑った。
「いえ、とんでもないです。そう言っていただけると、助かります」
「寒い日も暑い日も、大変ですよね。お気をつけて」
「ありがとうございます。またよろしくお願いします」
段ボールを受け取る瞬間、ほんの一瞬、二人の視線が合う。
それだけだ。
それだけなのに。
ソファから見ていた夫の胸の奥が、ひりついた。
——何だ、今の感覚は。
タブレットの画面は開いたまま。だが、文字は頭に入らない。
玄関のやり取りは、何もおかしくない。むしろ礼儀正しい。理想的な妻の姿だ。
なのに。
「……」
胸の奥に、黒いものがゆっくりと広がる。
嫉妬。
自分でも、はっきりとそれだと分かる感情。
妻が他の男に笑いかける。
それだけで、心がざわつく。
そして、その感情が、過去の記憶を呼び起こす。
——昔も、同じだった。
結婚して間もない頃。
妻が運転手と世間話としただけで、叱責した。
「必要以上に話すな」
秘書の相馬と業務連絡をしている姿を見ては、
「最低限の挨拶でいい」
「余計な会話はするな」
そう言ってきた。
あのときの自分は、正しいと思っていた。
妻はもともとこの家の使用人だった。
自分のもとで働き、自分の命令に従う立場だった。
結婚した今も、無意識のどこかで、その関係性を引きずっている。
気づけば、妻の交友関係はほとんどない。
自分。
娘の結。
メイドの佐川。
そして彼女の両親。
それだけだ。
友人はいない。気軽に出かける相手もいない。
自分が、そうさせた。
「……」
夫は小さく息を吐いた。
良くない。
分かっている。
妻は自分の所有物ではない。
だが。
——それでも。
これからも、自分に従っていてほしい。
自分だけを見ていてほしい。
他の男に笑いかける必要などない。
そう思う自分が、確かにいる。
玄関から戻ってきた妻が、段ボールを抱えて言う。
「あなたの書類かしら?書斎に置いておきますね」
「……ああ」
いつも通りの穏やかな声。
疑いも、不満も、何も含まれていない。
その無垢さが、余計に胸を締めつける。
——俺は、何をしている。
タブレットを静かに閉じる。
「少し、仕事をする」
そう言い残し、夫は立ち上がった。
廊下を歩く足取りは、普段より重い。
書斎のドアを閉める。
カチリ、と静かな音。
革張りの椅子に座るが、仕事の資料には手を伸ばさない。
窓の外に広がる都市の景色。
高層ビル群。
整然とした世界。
——俺は、この家を守っている。
そう思ってきた。
だが本当に守っているのは、家なのか。
それとも、自分の支配欲か。
机の上で、指を強く組む。
嫉妬している自分。
独占したい自分。
自由を奪っていると理解しながら、手放したくない自分。
矛盾が、胸の中で絡み合う。
「……」
静かな書斎に、彼の呼吸だけが響く。
リビングからは、妻が鍋をかき混ぜる音がかすかに聞こえる。
浴室では、佐川がまだ掃除をしているだろう。
寝室では、結が穏やかに眠っている。
完璧に整った、幸福な家庭。
その中心で、夫だけが、静かに揺れていた。




