表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
雨のち晴れ  作者: ありり
123/311

愛と所有の境界線①

休日の午後。


リビングにはやわらかな陽が差し込み、高層階から見える街並みが白く霞んでいた。

娘の結は、たっぷり遊んだ反動で、今は寝室でぐっすりと昼寝中だ。


浴室からは、一定のリズムで水音が響く。

メイドの佐川が、黙々とタイルを磨いている音だった。


キッチンでは、エプロン姿の妻が包丁を握っている。白いブラウスに落ち着いた色のエプロン。髪は低くまとめられ、動くたびに耳元が揺れる。


ソファでは、夫が足を組み、タブレットに視線を落としていた。


——静かな、整った、完璧な休日。


ピンポーン。


インターホンの音が、穏やかな空気を小さく震わせた。


「はい、今出ます」


妻がコンロの火を弱め、手を拭きながら玄関へ向かう。


夫は無意識にタブレットから視線を上げた。


玄関ドアが開く。


配達員の青年が、段ボールを抱えて立っていた。


「お荷物です」


「ありがとうございます。忙しい時期ですよね。毎日、本当にお疲れさまです」


妻の声は、やわらかく、自然だった。作ったものではない。心からの労い。


配達員は少し驚いたように目を丸くし、それから照れたように笑った。


「いえ、とんでもないです。そう言っていただけると、助かります」


「寒い日も暑い日も、大変ですよね。お気をつけて」


「ありがとうございます。またよろしくお願いします」


段ボールを受け取る瞬間、ほんの一瞬、二人の視線が合う。


それだけだ。


それだけなのに。


ソファから見ていた夫の胸の奥が、ひりついた。


——何だ、今の感覚は。


タブレットの画面は開いたまま。だが、文字は頭に入らない。


玄関のやり取りは、何もおかしくない。むしろ礼儀正しい。理想的な妻の姿だ。


なのに。


「……」


胸の奥に、黒いものがゆっくりと広がる。


嫉妬。


自分でも、はっきりとそれだと分かる感情。


妻が他の男に笑いかける。


それだけで、心がざわつく。


そして、その感情が、過去の記憶を呼び起こす。


——昔も、同じだった。


結婚して間もない頃。


妻が運転手と世間話としただけで、叱責した。


「必要以上に話すな」


秘書の相馬と業務連絡をしている姿を見ては、


「最低限の挨拶でいい」


「余計な会話はするな」


そう言ってきた。


あのときの自分は、正しいと思っていた。


妻はもともとこの家の使用人だった。


自分のもとで働き、自分の命令に従う立場だった。


結婚した今も、無意識のどこかで、その関係性を引きずっている。


気づけば、妻の交友関係はほとんどない。


自分。


娘の結。


メイドの佐川。


そして彼女の両親。


それだけだ。


友人はいない。気軽に出かける相手もいない。


自分が、そうさせた。


「……」


夫は小さく息を吐いた。


良くない。


分かっている。


妻は自分の所有物ではない。


だが。


——それでも。


これからも、自分に従っていてほしい。


自分だけを見ていてほしい。


他の男に笑いかける必要などない。


そう思う自分が、確かにいる。


玄関から戻ってきた妻が、段ボールを抱えて言う。


「あなたの書類かしら?書斎に置いておきますね」


「……ああ」


いつも通りの穏やかな声。


疑いも、不満も、何も含まれていない。


その無垢さが、余計に胸を締めつける。


——俺は、何をしている。


タブレットを静かに閉じる。


「少し、仕事をする」


そう言い残し、夫は立ち上がった。


廊下を歩く足取りは、普段より重い。


書斎のドアを閉める。


カチリ、と静かな音。


革張りの椅子に座るが、仕事の資料には手を伸ばさない。


窓の外に広がる都市の景色。


高層ビル群。


整然とした世界。


——俺は、この家を守っている。


そう思ってきた。


だが本当に守っているのは、家なのか。


それとも、自分の支配欲か。


机の上で、指を強く組む。


嫉妬している自分。


独占したい自分。


自由を奪っていると理解しながら、手放したくない自分。


矛盾が、胸の中で絡み合う。


「……」


静かな書斎に、彼の呼吸だけが響く。


リビングからは、妻が鍋をかき混ぜる音がかすかに聞こえる。


浴室では、佐川がまだ掃除をしているだろう。


寝室では、結が穏やかに眠っている。


完璧に整った、幸福な家庭。


その中心で、夫だけが、静かに揺れていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ