生まれてきてくれて
青空の下、公園からの帰り道。
夕方のやわらかい光が、二人の影を長く伸ばしていた。
夫はいつものように背筋を伸ばし、クールな表情で前を見ている。
その大きな手を、結がぎゅっと握っていた。
「ねえ、パパ」
「なんだ?」
「パパってさ、いつも強そうで、ぜったい泣かなそうだよね」
夫は少しだけ視線を下げる。結は真剣な顔で見上げていた。
「……泣いたことくらいある」
「えっ、ほんとに!?」
結は目を丸くする。
「子どものころはな。喧嘩もしたし、悔しくて泣いたこともある」
「パパが喧嘩!?」
「意外か?」
「うん。なんでも一番できそうなのに」
夫は小さく笑う。
「全部できるわけじゃない。負けることもある」
しばらく歩いて、結がまた聞いた。
「じゃあ……大人になってからは?」
夫は少し黙る。
「……ある」
「ええっ!? ほんとに!? いつ!?」
結の声が弾む。
「ママに一回ふられたとき?」
夫の眉がわずかに動く。
「それも……泣きそうにはなったな」
「えー!やっぱり!」
「だが、それ以上に泣いたことがある」
結は立ち止まった。
「それ以上!? そんなことあるの?」
夫は足を止め、空を見上げる。雲がゆっくり流れている。
「ママのお腹に、結がいるとわかったときだ」
結の目がぱちぱちと瞬く。
「え……?」
「正直、怖かった。守れるか、幸せにできるか、不安もあった」
夫の声は静かだが、どこか柔らかい。
「でもな。医者から“元気ですよ”って言われて、エコー写真を見せられたとき……」
少しだけ息を吸う。
「涙が止まらなかった」
結は黙って聞いている。
「そして無事に生まれてきてくれたときも、泣いた。あんなに安心して泣いたのは初めてだった」
結の手に、夫の握る力がほんの少し強くなる。
「強いとかクールとか関係なかった。ただ、“ありがとう”って思った」
結の頬がほんのり赤くなる。
「……パパ、そんなに泣いたの?」
「ああ。かなりな」
「ママは?」
「笑ってた。俺を見て、“あなたのほうが泣いてるじゃない”ってな」
結がくすっと笑う。
「パパ、かっこわるい」
「そうだな」
「でも、ちょっとだけ、かっこいい」
夫は目を細める。
「どっちだ」
「両方」
少し間があって、結が小さな声で言う。
「……ありがとう、パパ」
「何がだ?」
「生まれてきてくれて、って思ってくれて」
夫は一瞬言葉を失う。
そして、いつもの落ち着いた声で言う。
「違う」
「え?」
「生まれてきてくれて、ありがとうって言うのは俺のほうだ」
結の顔がぱっと明るくなる。
「えへへ」
夫はそっとしゃがみ、結の目線に合わせる。
「結」
「うん?」
「これからも、何度でも泣くと思う」
「え!? なんで!?」
「嬉しいことがあるたびにな」
結は満面の笑みを浮かべる。
「じゃあ、わたし、いっぱい嬉しいことつくる!」
「頼もしいな」
二人はまた歩き出す。
夕焼けが、少しずつ空を染め始めていた。
強くて、クールで、簡単には泣かない父親。
でも娘の前では、泣くことを隠さない一人の父。
その手は、大きくて温かかった。




