俺の隣は、お前だけ④
夜更け。
高層階の窓の向こうに、都会の灯りが無数に瞬いている。
ベッドの中。
妻は夫の胸に頬を預けているが、どこか静かだった。
夫はその小さな変化を感じ取っている。
「……まだ考えてるな?」
低く、優しい声。
妻は少しだけ笑う。
「何のこと?」
「昼間のこと」
「もういいのです」
「よくない」
夫は腕を少し強く回す。
「明日、休む」
「え?」
「仕事も予定もない。全部空ける」
妻は顔を上げる。
「急に?」
「急じゃない。元々空いてる」
「でも、あなた忙しいでしょう?」
「お前より優先するものはない」
さらりと言う。
妻は困ったように笑う。
「そんな大げさな」
「大げさじゃない。明日どこか行こう」
「どこかって?」
「どこでもいい。遠出でもいいし、ホテルのランチでもいい。欲しいものがあれば買えばいい」
妻はしばらく黙る。
そして小さく首を振る。
「そういうのじゃなくて」
「?」
「もっと……普通がいいです」
夫は眉を上げる。
「普通?」
妻は少しだけ照れたように視線を逸らす。
「一緒に、結を幼稚園に送りに行きたい」
「……」
「それから、公園を少し散歩して」
「ほう」
「スーパーで買い物して」
夫は小さく笑う。
「またカレーか?」
「違いますよ」
「それで?」
「お昼を一緒に作って、二人で食べる」
「……」
「それから、結のお迎えも一緒に行くの」
静かな提案。
贅沢でも、派手でもない。
夫はしばらく考えて、ふっと笑う。
「今までやってきてないデートだな」
「そうね」
「幼稚園の送り迎えがデートか」
「だめですか?」
「いや」
夫は妻の顎を軽く撫でる。
「最高だな」
妻の目が少し丸くなる。
「本当に?」
「ああ。むしろ俺のほうがやってみたかった」
「うそ」
「本気だ」
夫は窓の外を見る。
「高級レストランも海外旅行も、いくらでもできる」
「うん」
「でも、そういう“普通”は今しかできない」
妻の瞳が揺れる。
「あなた……」
「結が小さい今だけだろ」
妻は少しだけ目を潤ませる。
「じゃあ……明日、送りに行くのね?」
「ああ」
「公園も?」
「もちろん」
「スーパーも?」
「荷物は俺が持つ」
妻はくすっと笑う。
「若いママたちに囲まれても?」
夫の目が細くなる。
「俺の妻は一人だ」
静かに。
はっきりと。
「隣を歩くのはお前だ」
妻は一瞬、息を止める。
「……本当に、気にしないの?」
「何を?」
「私が四十一なこと」
夫は即答する。
「全く」
「七歳上よ?」
「だから?」
「……」
「十歳でも二十歳でも同じだ」
夫は妻を引き寄せ、額に軽く口づける。
「俺はお前を選んだ」
妻は胸に顔を埋める。
「ありがとう」
「明日は朝、俺が起こす」
「結がびっくりするわね」
「たまには父親らしいことをする」
「いつもしてるじゃない」
「もっとする」
妻は小さく笑い、目を閉じる。
「楽しみね」
「ああ」
しばらく静かな時間。
都会の光がカーテン越しに揺れる。
夫は腕の中の温もりを確かめる。
(隣にいるのは、この人だ)
妻の呼吸がゆっくり整っていく。
「……おやすみ」
かすかな声。
「おやすみ」
夫は優しく髪を撫でる。
明日は特別な場所へは行かない。
幼稚園へ送り、
公園を歩き、
スーパーで買い物し、
一緒に昼を作り、
迎えに行く。
それだけ。
それが、今の二人には何よりの贅沢だった。
やがて、二人は静かに眠りについた。




