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雨のち晴れ  作者: ありり
119/311

俺の隣は、お前だけ④

夜更け。


高層階の窓の向こうに、都会の灯りが無数に瞬いている。


ベッドの中。

妻は夫の胸に頬を預けているが、どこか静かだった。


夫はその小さな変化を感じ取っている。


「……まだ考えてるな?」


低く、優しい声。


妻は少しだけ笑う。


「何のこと?」


「昼間のこと」


「もういいのです」


「よくない」


夫は腕を少し強く回す。


「明日、休む」


「え?」


「仕事も予定もない。全部空ける」


妻は顔を上げる。


「急に?」


「急じゃない。元々空いてる」


「でも、あなた忙しいでしょう?」


「お前より優先するものはない」


さらりと言う。


妻は困ったように笑う。


「そんな大げさな」


「大げさじゃない。明日どこか行こう」


「どこかって?」


「どこでもいい。遠出でもいいし、ホテルのランチでもいい。欲しいものがあれば買えばいい」


妻はしばらく黙る。


そして小さく首を振る。


「そういうのじゃなくて」


「?」


「もっと……普通がいいです」


夫は眉を上げる。


「普通?」


妻は少しだけ照れたように視線を逸らす。


「一緒に、結を幼稚園に送りに行きたい」


「……」


「それから、公園を少し散歩して」


「ほう」


「スーパーで買い物して」


夫は小さく笑う。


「またカレーか?」


「違いますよ」


「それで?」


「お昼を一緒に作って、二人で食べる」


「……」


「それから、結のお迎えも一緒に行くの」


静かな提案。


贅沢でも、派手でもない。


夫はしばらく考えて、ふっと笑う。


「今までやってきてないデートだな」


「そうね」


「幼稚園の送り迎えがデートか」


「だめですか?」


「いや」


夫は妻の顎を軽く撫でる。


「最高だな」


妻の目が少し丸くなる。


「本当に?」


「ああ。むしろ俺のほうがやってみたかった」


「うそ」


「本気だ」


夫は窓の外を見る。


「高級レストランも海外旅行も、いくらでもできる」


「うん」


「でも、そういう“普通”は今しかできない」


妻の瞳が揺れる。


「あなた……」


「結が小さい今だけだろ」


妻は少しだけ目を潤ませる。


「じゃあ……明日、送りに行くのね?」


「ああ」


「公園も?」


「もちろん」


「スーパーも?」


「荷物は俺が持つ」


妻はくすっと笑う。


「若いママたちに囲まれても?」


夫の目が細くなる。


「俺の妻は一人だ」


静かに。


はっきりと。


「隣を歩くのはお前だ」


妻は一瞬、息を止める。


「……本当に、気にしないの?」


「何を?」


「私が四十一なこと」


夫は即答する。


「全く」


「七歳上よ?」


「だから?」


「……」


「十歳でも二十歳でも同じだ」


夫は妻を引き寄せ、額に軽く口づける。


「俺はお前を選んだ」


妻は胸に顔を埋める。


「ありがとう」


「明日は朝、俺が起こす」


「結がびっくりするわね」


「たまには父親らしいことをする」


「いつもしてるじゃない」


「もっとする」


妻は小さく笑い、目を閉じる。


「楽しみね」


「ああ」


しばらく静かな時間。


都会の光がカーテン越しに揺れる。


夫は腕の中の温もりを確かめる。


(隣にいるのは、この人だ)


妻の呼吸がゆっくり整っていく。


「……おやすみ」


かすかな声。


「おやすみ」


夫は優しく髪を撫でる。


明日は特別な場所へは行かない。


幼稚園へ送り、

公園を歩き、

スーパーで買い物し、

一緒に昼を作り、

迎えに行く。


それだけ。


それが、今の二人には何よりの贅沢だった。


やがて、二人は静かに眠りについた。

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