俺の隣は、お前だけ③
夜。
結はすでに眠り、佐川の部屋の灯りも消えている。
リビングの大きな窓の前。
妻は夜景を見つめながら、そっと息を吐いた。
「……はぁ」
その背中を、少し離れた場所から夫が見ている。
(今日のことだな)
結から、すべて聞いている。
妻は知らない、
夫が知っていることを。
夫は静かに近づく。
「どうした?」
妻は少し肩を揺らし、振り向く。
「あら、まだ仕事してると思ってました」
「終わった」
夫は自然に隣へ立つ。
「ため息が聞こえた」
「……そんなに大きかったですか?」
「俺にはな」
少し沈黙。
夜景が静かに瞬く。
妻は視線を落とす。
「ねえ」
「ん?」
「私……四十一になったでしょう?」
「そうだな」
「あなたは十一月まで三十四」
「七歳差だ」
妻は苦笑する。
「六歳でも少し気になるのに、七歳って……なんだか急に現実味が出てきました」
「何がだ?」
「釣り合わないんじゃないかって」
夫は何も言わない。
妻は続ける。
「結の同級生のお母さんたち、二十代半ばの人もいるんですよ」
「……」
「今日もね、若いお母さんに会って。肌も綺麗で、細くて、華やかで」
夫の目が静かに細くなる。
妻は気づかない。
「私は落ち着いてるって言われたわ」
少し笑う。
「遠回しですよね」
「……気にしたのか」
「少しだけ」
正直な声。
「最近、体型も変わってきたし。前みたいに何でも似合うわけじゃないですし」
自分の腕を見下ろす。
「あなたの隣を、私が歩いていいのかなって」
その言葉に、夫の表情が変わる。
静かに、しかし強く。
「何を言ってる」
低い声。
妻は少し驚く。
「だって……」
「俺が選んだ」
はっきりと。
「俺が隣に立ってほしいと望んだのは、お前だ」
「……でも」
「年齢?」
夫は一歩近づく。
「十歳離れていようが、二十歳離れていようが関係ない」
妻の顎に指を添え、そっと上を向かせる。
「俺はお前を愛している」
真っ直ぐな視線。
「二十代の頃より、今のほうが綺麗だ」
「……それは言い過ぎです」
「本気だ」
妻は目を逸らす。
「若い母親がどう見ようと関係ない」
夫の声が少し低くなる。
「お前は俺の妻だ。それ以上でもそれ以下でもない」
しばらく沈黙。
妻は小さく笑う。
「あなたは本当に気にしないのね」
「気にする理由がない」
「もし私が五十になっても?」
「隣にいる」
「六十でも?」
「当たり前だ」
妻は目を潤ませる。
「……ありがとう」
夫はそのまま抱き寄せる。
「今日、何を言われた?」
妻は一瞬だけ迷う。
「大したことじゃないわ」
「具体的に」
少しだけ強い声。
妻は観念する。
「お手伝いさんだと思われたの」
夫の瞳が冷たくなる。
「……」
「落ち着いてるからって。結のお母さんにしてはって」
夫の腕が僅かに強くなる。
妻は気づかない。
「でもね」
妻は続ける。
「結がね、悲しい?って聞いてくれたの」
夫の表情がほんの少し緩む。
「私はね、結とあなたがいるから気にしないって言いました」
夫は心の中で呟く。
(……強いな)
結が自分に話してくれたことも。
妻が本当は少し傷ついていたことも。
全部、知っている。
「お前は俺の誇りだ」
「大げさです」
「本気だ」
夫は額を寄せる。
「二十代に戻りたいか?」
妻は少し考えて、
「……今のほうがいいかな」
「だろう」
「あなたと結がいます」
夫は小さく息を吐く。
(誰が何を言おうと)
(傷つけたら許さない)
表情には出さない。
ただ穏やかに。
「明日、どこか出かけるか?」
「どうして?」
「俺の隣を歩いてもらう」
妻は少し照れる。
「変な人」
「自慢したいだけだ」
妻は笑う。
その笑顔を見て、夫は確信する。
(守る)
年齢も、視線も、言葉も。
すべてから。
妻は何も知らない。
結がこっそり報告したことも。
夫が内心、静かに怒りを抱いたことも。
ただ、夜景の光の中で。
夫の胸に顔を預ける。
そして夫は、もう一度だけ囁く。




