ミステリーツアー③
当日の朝。
五月の澄んだ空気が、タワマンの高層階の廊下を静かに満たしている。
玄関には、すでに整えられた旅行バッグが二つ。
その横に、夫が持つ小ぶりの黒いレザーバッグ。
その中には——
着替えと、そして。
結と一緒に選んだ、妻へのブレスレット。
まだ渡さない。
夜まで、秘密だ。
「準備できたか」
低く落ち着いた声。
妻がスニーカーの紐を結びながら笑う。
「ええ。ばっちりです」
「言っただろう」
「動きやすい服で、ってね」
結は小さなリュックを背負って、くるりと回る。
「みて! ちゃんとすくなめ!」
「合格だ」
「やった!」
玄関脇で、身なりを整えた佐川が深く一礼する。
「旦那様、奥様、お嬢様。お気をつけて」
夫は旅行バッグを持ち上げながら言う。
「三日間、家を頼む」
「承知しております。郵便物、宅配、植栽の管理、全て滞りなく」
「何かあれば連絡しろ」
「はい」
妻が少し柔らかい声で言う。
「佐川、ありがとう。ゆっくりしてね」
「恐れ入ります」
結が駆け寄る。
「さがわ! おみやげかってくる!」
佐川は微笑む。
「楽しみにお待ちしております」
夫は黒いレザーバッグをさりげなく持ち直す。
(気づいていないな)
妻はその中身を知らない。
まだ。
エレベーターで地下駐車場へ。
静かな高級車が待っている。磨き上げられたボディが朝日を反射している。
夫がトランクを開け、旅行バッグを丁寧に積み込む。
その隣に、黒いレザーバッグもそっと置いた。
妻が覗き込む。
「それ、仕事用じゃないの?」
「違う」
「なに?」
「秘密だ」
「また?」
「ミステリーだと言っただろう」
結が後部座席でチャイルドシートに座りながら叫ぶ。
「パパはひみつおおい!」
「必要な分だけだ」
妻も後部座席へ。
「今日は後ろなのね、私たち」
「ああ」
夫は運転席に座り、エンジンをかける。
低く、重厚な音が駐車場に響く。
結がきゃあっと声を上げる。
「パパのうんてん、はじまるー!」
「シートベルト」
「はーい!」
妻がベルトを締めながら、少しだけ夫を見る。
「本当に、どこなんです?」
バックミラー越しに目が合う。
「到着するまで言わない」
「徹底してるわね」
「当然だ」
「遠い?」
「答えない」
「高速使う?」
「答えない」
「ヒントちょうだい」
「もうヒントは出さない」
結が身を乗り出す。
「ママ、あてっこしよ!」
「いいわね」
「海!」
「違う」
「えっ!? 今否定した!」
「否定はしていない」
「した!」
夫はゆっくりと車を発進させる。
タワマンのゲートを抜け、朝の街へ滑り出す。
光がフロントガラスに差し込む。
妻が小さくつぶやく。
「なんだかドキドキします」
「それが狙いだ」
「あなた、楽しんでるでしょう」
「少しな」
結がはしゃぐ。
「パパ! きょうはずっとパパのうんてん?」
「ああ」
「かっこいいー!」
妻が優しく笑う。
「結、うるさくしすぎないのよ」
「はーい!」
夫はハンドルを握りながら、静かに思う。
(今日、あの星空を見せる)
若い頃、彼女が見上げた満天の夜。
忘れられないと言っていた夜。
その記憶を、もう一度。
隣ではなく、今度は後ろに妻と娘を乗せて。
バックミラーに映る二人の姿。
笑っている。
それだけで、十分だ。
だが——まだ言わない。
行き先は。
星が待つ、長野だということを。
夫は静かにアクセルを踏み込んだ。
三日間のミステリーが、今、始まる。




