ミステリーツアー②
翌日の夜。
リビングの大きな窓の向こうに、都会の灯りが宝石のように瞬いている。
ソファでくつろぐ夫の前に、妻が温かいハーブティーを置いた。
「ねぇ、あなた」
「なんだ」
「行き先は言えないのは分かりました。でも……」
夫は視線だけを上げる。
「でも?」
「せめて、交通手段くらい教えてくれない?」
隣でお絵描きをしていた結が、ぴくっと反応する。
「こうつうしゅだん?」
妻は少し身を乗り出す。
「飛行機なのか、新幹線なのか、それとも海外なのか……。荷物の準備もあるし」
夫は一瞬黙る。
「……鋭いな」
「当たり前でしょう」
「だが、ミステリーだ」
「全部は聞きません。せめてそこだけ」
結がクッションを抱えながら参戦する。
「パパー! ヒントちょうだいー!」
夫はため息をついた。
「……交通手段だけだぞ」
妻の目がきらりと光る。
「ほんと?」
「それ以上はなしだ」
「約束する」
少し間を置いて、夫は淡々と言った。
「車だ」
「車?」
「俺の運転で行く」
その瞬間——
「ええええっ!? パパのうんてん!?」
結がソファの上でぴょんと跳ねた。
「ほんと!? ほんと!? ずっと!? パパが!?」
「騒ぐな。危ない」
「やったーーー!!」
結は両手をぶんぶん振り回しながら叫ぶ。
「パパのうんてんだいすき! かっこいいもん!」
妻は少し驚いた顔をする。
「あなたが全部運転するの? 三日間も?」
「ああ」
「疲れますよ?」
「問題ない」
「運転手さんは?」
「今回は同行しない」
結が目を輝かせる。
「ごくひにんむだから!?」
夫の口元がわずかに上がる。
「そうだ。極秘任務だ」
「わたし、ナビする!」
「お前は後部座席だ」
「えー!」
妻がくすっと笑う。
「長距離よね? どのくらい?」
「それ以上は言わない」
「えっ、ちょっと待って。長距離なの?」
「今のは独り言だ」
「今ヒント出したでしょう?」
「出していない」
結がにやにやする。
「パパ、ちょっとしゃべっちゃった」
夫は結の頭を軽くつつく。
「黙秘権だ」
妻が腕を組む。
「車ってことは国内よね?」
「それも言わない」
「でも飛行機じゃないのよね?」
「質問が多い」
「だって気になるもの」
夫は立ち上がり、窓の外を見ながら言った。
「準備は動きやすい服で十分だ」
「動きやすい……?」
「ヒールは不要だ」
「えっ」
「それ以上は聞くな」
妻はじっと夫の背中を見る。
「あなた、何か企んでる顔してる」
「常にしている」
「自覚あるのね」
結がソファの上でぐるぐる回る。
「パパのうんてんでりょこうー! たのしみー!」
「座れ。落ちるぞ」
「はーい!」
妻は少し真面目な顔になる。
「でも、本当に大丈夫? あなた、最近忙しかったでしょう」
夫は振り返る。
「だから行く」
「え?」
「時間は作るものだ」
静かな声。
強い決意。
妻の表情がやわらぐ。
「……ありがとう」
「まだ何もしていない」
「もう十分ですよ」
結が両手を上げる。
「パパ! くるまピカピカにしといてね!」
「既に済ませた」
「はやっ!」
「ミステリーは準備が命だ」
妻が小さく笑う。
「ねぇ、最後に一つだけ」
夫が警戒するように目を細める。
「……なんだ」
「山? 海?」
「答えない」
「寒い?」
「答えない」
「じゃあ暑い?」
「答えない」
「もう!」
結が楽しそうに笑う。
「ママ、パパつよいね!」
夫は腕時計を見て、静かに告げる。
「ヒントはここまでだ。これ以上はない」
「本当に?」
「ああ」
「絶対?」
「絶対だ」
結が嬉しそうに言う。
「パパのうんてんだけで、もう100点!」
夫はふっと息をつく。
「安いな」
「やすくないもん!」
妻は立ち上がり、夫の隣に並ぶ。
「じゃあ、私たちは当日まで楽しみにしています」
「それでいい」
「あなたのミステリー、期待してるわ」
夫は短く頷く。
「裏切らない」
窓の外、夜空にひとつ星が瞬いていた。
——長野だということは、まだ言わない。
——満天の星空を見に行くことも。
ヒントは「車」だけ。
それ以上は、決して明かさない。
夫は静かに微笑んだ。
今年の母の日と誕生日は、
彼女にとって忘れられない夜になる。




