ミステリーツアー①
5月の柔らかな陽射しが、タワマンの高層リビングいっぱいに差し込んでいた。
ダイニングテーブルでは、妻と結が並んでおやつを食べている。
キッチン奥では、メイドの佐川が静かに紅茶を淹れていた。
その時——
「来週、三日間、予定を空けておけ」
低く落ち着いた声で、夫が言った。
妻が顔を上げる。
「……え? 来週? あなた、お仕事は?」
「調整した」
あまりに淡々としていて、まるで会議の報告のようだ。
結がぱっと顔を輝かせる。
「えっ!? どこ行くの!? パパ!」
夫はグラスの水を一口飲み、口元だけでわずかに笑う。
「ミステリーツアーだ」
「ミステリー!?」
結は椅子の上でぴょんと跳ねる。
「なにそれ! なにそれ!」
妻はまだ状況が飲み込めないまま、夫を見つめている。
「ちょっと待って。三日間って……泊まり?」
「ああ」
「急すぎない?」
「お前の誕生日と、母の日だ。今年は重なっているだろう」
その一言で、妻がはっと息をのむ。
「……覚えてたの?」
「忘れるわけがない」
静かな、けれど確かな声音だった。
結が両手をぶんぶん振る。
「ママのおたんじょうび旅行!? すごーい!! ママ、よかったね!」
妻は困ったように笑う。
「でも……そんな大げさなことしなくていいのに。母の日なんて、結がいてくれるだけで——」
「却下だ」
即答だった。
「今年は特別だ」
「特別?」
「重なる年はそう多くない」
夫はそれ以上説明しない。
だが、その目はどこか決意を帯びている。
結が身を乗り出す。
「ねぇねぇ! どこ!? 海!? テーマパーク!? ひこうき!?」
「言わない」
「えー!」
「ミステリーだからな」
妻がくすっと笑う。
「あなた、そういうの好きよね」
「嫌いじゃない」
「ヒントくらいは?」
夫はわずかに考える素振りを見せ、それから首を横に振った。
「ない」
「冷たい」
「楽しみは当日まで取っておけ」
結は両手で口を押さえ、きゃあっと笑う。
「わたし、リュックつめる! ぬいぐるみもってく!」
「最低限にしろ」
「えー!」
そのやり取りを、少し離れた場所から佐川が静かに見守っていた。
夫は立ち上がり、視線を佐川へ向ける。
「佐川」
「はい、旦那様」
「来週三日間、家を頼む」
「承知いたしました」
「留守中の管理、書類の受け取り、植栽の水やり。問題ないな」
「万全を期します」
淡々としたやり取り。
だが佐川の胸中には、ほんのわずかな温度が灯る。
(奥様の誕生日と母の日……ご家族でご旅行……)
夫はそれ以上語らない。
行き先も、目的も。
——星がよく見える場所だということも。
妻が少し不安そうに夫を見る。
「ねぇ、本当に大丈夫? お仕事……」
「問題ない」
「私のために無理してない?」
夫は一瞬だけ表情を和らげた。
「無理ではない。選んだだけだ」
その言葉に、妻の頬がほんのり赤くなる。
結が両手を広げて叫ぶ。
「ママ! たのしみだね!」
妻は結を抱きしめる。
「うん……楽しみ」
夫はその光景を静かに見つめていた。
——若い頃、長野で見た満天の星空が忘れられない。
あの日、車の中で結が教えてくれた「ママの秘密」。
あの瞬間から、もう決めていた。
(お前に、もう一度見せる)
誰よりも輝く夜を。
「準備は俺がしておく。お前たちは何も考えなくていい」
「本当に?」
「ああ」
結がにやりとする。
「パパ、かっこつけてる!」
夫は無言で結の頭を軽く撫でた。
「ミステリーは守秘義務だ。誰にも言うな」
「はーい!」
妻が小さく笑う。
「じゃあ私も、楽しみに待ってるわ。あなたのサプライズ」
夫は窓の向こう、夕暮れに染まり始めた空を見た。
まだ明かさない。
行き先は——星の見える長野。
夜空いっぱいに広がる光を、
愛する妻に、そして娘に。
今年は、忘れられない三日間になる。




