メイドと秘書の共通項
タワーマンションの午後は、静かだった。
妻と結は外出中。
高層階のリビングには、書類を広げた夫と、控えめな足音を立てる佐川だけがいる。
「佐川」
低く、落ち着いた声。
「はい、旦那様」
「相馬が来る。書類を持ってくるはずだ。着いたらエントランスで受け取ってくれ」
「かしこまりました」
「俺はこのまま会議に入る。必要があれば内線で呼べ」
「承知いたしました」
夫は一瞬だけ佐川を見た。
「……頼む」
その一言は、命令というより信頼だった。
佐川は静かに頭を下げる。
「お任せください」
―――
それから二十分ほど経った頃。
インターホンが鳴った。
「はい」
モニターに映るのは、端正なスーツ姿の男性。
「相馬です」
「お待ちしておりました。今、参ります」
エントランスホールは、午後の光で白く静まっている。
エレベーターが開き、佐川が姿を見せた。
落ち着いたグレーのワンピースに、清潔なエプロン。
背筋は真っ直ぐ、視線は穏やか。
「お久しぶりです」
相馬が軽く会釈する。
「ご無沙汰しております、相馬様」
数回、顔を合わせたことはある。
だが、こうして二人きりで話すのは初めてだった。
相馬が書類ケースを差し出す。
「こちら、本日分です。急ぎではありませんが、目を通していただければ」
「確かにお預かりいたします」
受け取る手が触れそうになり、ほんの一瞬、目が合う。
相馬がふっと微笑んだ。
「……以前より、表情が柔らかくなりましたね」
佐川は少し驚く。
「そうでしょうか」
「ええ。初めてお会いしたときは、もう少し……こう、鋭い雰囲気でした」
「それは失礼いたしました」
「いえ、仕事のできる方、という印象です」
佐川はわずかに視線を落とし、それから静かに言った。
「結様がお生まれになってからでしょうか」
「お嬢様ですね」
「はい。家が賑やかになりました。……それに、旦那様と奥様が、何かと気遣ってくださいますので」
相馬の目がわずかに柔らかくなる。
「お二人らしい」
「ええ。本当に」
少しの沈黙。
けれど、気まずさはない。
相馬が何気なく言った。
「失礼ですが……佐川さん、おいくつで?」
「四十六です」
「……奇遇ですね。私もです」
佐川が顔を上げる。
「まあ」
「独身で、仕える主人は同じ。……なかなか珍しい共通点です」
思わず、佐川が小さく笑った。
「本当に。こうしてお話しするのは初めてですが、妙に親近感が」
「東京は長いんですか?」
佐川が尋ねる。
「大学からです。地方出身でして」
「どちらの大学を?」
「慶明大学です」
その瞬間。
佐川の目が見開かれる。
「……慶明大学?」
「ええ。経済学部でした」
「私も慶明です。文学部ですが」
「本当ですか?」
一気に距離が縮まる。
「文学部の校舎、図書館の裏手の並木道、ご存じですか?」
「もちろん。秋になると銀杏が落ちて大変でした」
「そうそう、匂いが……」
二人同時に笑う。
エントランスに、柔らかな空気が流れる。
「まさか、同じ大学とは」
「世間は狭いものですね」
「在学は……」
「ちょうど重なっています。もしかすると、同じ講義棟にいたかもしれません」
「それは……不思議な縁ですね」
佐川の胸の奥が、じんわりと温かくなる。
夫婦と結。
それが彼女の世界のすべてだった。
もちろん不満はない。
むしろ感謝している。
けれど――
「こうして、外の方とゆっくりお話しするのは、久しぶりです」
ぽつりと本音がこぼれる。
相馬が、まっすぐに見る。
「私もです。仕事柄、淡々としたやり取りばかりで」
「……少し、嬉しいです」
「ええ。私も」
また、静かな笑み。
エレベーターの到着音が鳴る。
「それでは、私はこれで」
「はい。本日はありがとうございました」
一礼。
エレベーターの扉が閉まる直前、相馬が言う。
「またお会いできるのを楽しみにしています、佐川さん」
佐川は、ほんの少しだけ頬を緩めた。
「こちらこそ」
扉が閉まる。
静まり返るエントランス。
手に持つ書類の重みが、なぜかいつもより軽く感じる。
(同じ年齢で、同じ大学で、同じ主人に仕えている)
偶然にしては、出来すぎている。
胸の奥に、久しぶりの感情が灯る。
世界が、ほんの少し広がった気がした。
エレベーターで上階へ戻る佐川の足取りは、いつもよりわずかに軽い。
相馬と佐川はこれから大きなことに巻き込まれる。
それは、もう少し先の話。




