極秘任務
もうすぐ5月。
高層タワマンのリビングに、やわらかな春の光が差し込んでいた。
「あなた、今日ね。美容院に行ってきてもいいかしら?」
朝のコーヒーを片手に、妻が少し遠慮がちに言う。
夫は新聞から視線を上げ、すぐに微笑んだ。
「もちろんだ。久しぶりだろう。1日ゆっくりしてこい」
「そんなに長くいないですよ?」
「いや、今日は命令だ。何も考えず、好きなだけ時間を使え」
妻はふっと笑い、
「じゃあ甘えさせていただきます」
とバッグを手にした。
結が駆け寄る。
「ママ、きれいになってくるの?」
「もう十分きれいだがな」と夫が淡々と付け加える。
「……あなた、そういうこと平気で言うのよね」
少し照れながら、妻は夫のネクタイを整えた。
「じゃあ、いってきます」
「いってらっしゃい」
玄関のドアが閉まる。
静けさの中、夫はふと結を見下ろした。
「……結」
「なぁに、パパ?」
「極秘任務に出るぞ」
結の目がきらきら輝く。
「ごくひ?なにそれ!」
「ママの誕生日プレゼントを探しに行く」
「いくー!!」
結はぴょんと飛び跳ねた。
キッチンから、メイドの佐川が現れる。
「お出かけですか?」
「ああ。昼はいらない。お前も自由にしてろ」
「かしこまりました」
「夕食の準備だけ頼む」
「承知いたしました」
夫は淡々と言うが、その声はどこか軽い。
車庫へ降りる。
結が助手席を見て言った。
「あれ?運転手さんいないの?」
夫はサングラスをかけながら、低く言う。
「今日は極秘任務だ。情報漏洩防止のため、俺が運転する」
「かっこいいー!」
エンジンが静かに唸る。高級車は滑るようにタワマンを出た。
後部座席のチャイルドシートに座る結が身を乗り出す。
「ママ、なにが好きかな?」
「難しいところだな」
「キラキラ?」
「興味はない」
「バッグ?」
「今のもので十分だと言う」
「じゃあ、おはな?」
「それも毎年贈っている」
夫は小さく息を吐く。
「……あいつは、物欲がない」
「パパのほうがほしいの?」
「俺は欲しいものがはっきりしているからな」
「なに?」
「お前とママの笑顔だ」
「えー!パパずるいー!」
結の笑い声が車内に響く。
やがて、高級ブティック街に到着する。
ガラス張りの店が並び、洗練された空気が漂う。
結は小声で聞く。
「ここ、ママすき?」
「好きではない」
「え?」
「だが、俺が好きだ」
「???」
夫は腕時計を直しながら歩き出す。
「俺が似合うと思うものを、あいつに着せたい」
「きせるって言った!」
「……贈る、だ」
最初に入ったのは宝飾店。
ダイヤのネックレスが輝く。
「パパ、これきれい」
「似合うだろうな」
「じゃあこれ!」
夫はしばらく見つめる。
「だが……重い」
「おもい?」
「気持ちが、だ」
「???」
「……あいつは、こういうのをつけると落ち着かない顔をする」
結は真剣に考える。
「ママ、パパにもらったら、うれしいよ?」
「……うれしい、か」
夫の目が少し柔らぐ。
次はハイブランドのバッグ。
「これは?」
「それ、ママいつも『もったいない』って言うよ?」
「……言うな」
「パパ、ママのこと、むずかしい?」
夫は少し笑う。
「世界一、な」
街を歩きながら、カフェテラスで休憩する。
結がジュースを飲みながら言う。
「パパ」
「なんだ」
「ママ、なにがいちばんうれしいとおもう?」
夫はしばらく黙る。
車を運転しているときの妻の横顔。
結を抱く妻の笑顔。
白無垢姿で照れていたあの日。
「……時間、かもしれない」
「じかん?」
「俺と、お前と過ごす時間」
結はにっこり笑う。
「じゃあね!」
「ん?」
「パパがおやすみとるのがプレゼント!」
夫は一瞬、言葉を失う。
「……それは、難易度が高いな」
「でもできるでしょ?パパ、つよいもん」
その言葉に、夫は小さく笑った。
「……そうだな」
立ち上がる。
「もう一軒、見るぞ」
「うん!」
最後に入ったのは、小さなオーダーメイドの店。
派手ではない。だが上質。
シンプルなブレスレットが並ぶ。
夫はひとつ手に取る。
「これ、どう?」
結は目を細める。
「ママ、つけてるの、そうぞうできる」
「俺もだ」
「キラキラしすぎてない」
「そうだな」
「でも、パパっぽい」
夫は静かに頷く。
「決まりだ」
結が拍手する。
「極秘任務、せいこう!」
会計を済ませ、外に出る。
夕方の光が街を染める。
車に戻りながら、結が聞く。
「ママ、よろこぶかな?」
夫はエンジンをかけながら答える。
「……必ず」
「なんでわかるの?」
「俺が選んだからだ」
少し間を置き、
「それと」
「それと?」
「お前が一緒に選んだからな」
結は誇らしげに胸を張った。
高級車は静かに走り出す。
タワマンの最上階で待つ妻の笑顔を思い浮かべながら、
夫はハンドルを握りしめた。
極秘任務は、まだ誰にも知られていない。




