ママの秘密②
春の陽射しがやわらかく降り注ぐ幼稚園前。
門の前で、夫は結を抱き上げたまま足を止める。
「着いたぞ」
「もう? もっとパパとデートしたいー」
結は小さな両手で夫のネクタイをぎゅっと握る。
夫は真顔のまま、ほんの少しだけ目元を緩めた。
「帰りも迎えに来る」
「ほんと?」
「ああ。約束する」
結はじっと夫を見つめる。
「じゃあ、指きり」
「……ここでか?」
「ここで!」
夫は苦笑しながらも、片手で結を支え、もう片方の小指を差し出す。
小さな小指が絡む。
「ゆーびきりげんまん、うそついたら……」
「針千本飲む、だろう?」
「パパ、ちゃんと歌って!」
周囲の保護者たちがくすっと笑う。
夫は低い声で、真面目に歌いきった。
指が離れる。
「これで絶対だよ」
「ああ。仕事を片付けて、必ず来る」
結は満面の笑みで、先生の元へ駆けていく。
「パパ、ばいばーい!」
夫は軽く手を上げるだけだが、その視線は柔らかい。
――その姿を、周囲の夫人たちが見ていた。
「やっぱり素敵よね……」
「今日もスーツが完璧」
「タワマンの最上階でしょ? しかも運転手付きの車」
「お手伝いさんもいるって聞いたわよ」
「それでいて、あんなに子どもに優しいなんて……」
ひそひそと、しかし隠しきれない熱を帯びた声。
一人の夫人が、思い切って歩み寄る。
「おはようございます。いつも本当に素敵ですね。結ちゃんも幸せそう」
夫は視線を向け、淡々と応じる。
「ありがとうございます。娘が元気でいてくれれば、それで十分です」
「毎日お迎えも?」
「今日はたまたまです」
柔らかく、しかし隙のない返答。
「奥様、体調が優れないと伺いましたけど」
「ええ。少し休めば戻ります」
「羨ましいわ。あんな完璧な旦那様……」
夫は一瞬だけ目を細める。
「完璧ではありません。ただの父親です」
それ以上会話が広がらない空気を、自然に作る。
別の夫人が笑いながら言う。
「結ちゃんのパパ、幼稚園でも有名ですよ」
「そうですか」
「かっこよくて、お金持ちで、クールで、子どもに優しいって」
夫は小さく息をつく。
「噂は大げさです」
「でも事実でしょう?」
「どうでしょう」
さらりとかわす。
視線はすでに門の向こう、教室へ向かう結の背中へ戻っている。
夫人たちは、去っていく背中を見送りながらささやく。
「やっぱり素敵……」
「奥様が羨ましいわ」
――その言葉が、ふと胸に引っかかる。
(妻は、これを毎日聞いているのか)
無遠慮な視線。
好奇の目。
羨望と嫉妬の入り混じった空気。
俺にとってはどうでもいいものだが、妻に向けられたら――。
車へ向かいながら、夫は静かに考える。
(気にしていないふりをしているが……)
妻は強い。
だが、強さと平気は違う。
今朝、少し熱を帯びた頬。
無理をしようとする笑顔。
車のドアが開く。
乗り込みながら、低く呟く。
「……帰りは必ず迎えに行く」
それは結との約束でもあり、
妻への、ささやかな気遣いでもあった。
(帰ったら、何も言わずにそばにいよう)
そしてもう一つ、胸に浮かぶ。
長野の満天の星空。
妻の忘れられない夜。
「星か……」
クールな表情のまま、夫は静かに目を閉じる。
次の“贈り物”は、もう決まりかけていた。




