ママの秘密①
タワマンの寝室は、朝の柔らかな光に包まれていた。
けれど、ベッドの中央で静かに横たわる妻の額に、夫はそっと手を当てる。
「……少し熱いな」
「大丈夫よ、あなた。ちょっと疲れが出ただけだから」
声はいつもの強さを保とうとしているが、わずかにかすれている。
夫は眉を寄せる。
「無理をするな。今日は一日、何も考えずに休め」
「でも結の送り……」
「俺が行く」
即答だった。
ベッドの脇で小さな足音が跳ねる。
「え? パパが行くの?」
結がぱっと顔を輝かせる。
夫は視線を落とし、口元をわずかに緩める。
「ああ。今日はパパとデートだ」
「やったぁぁぁ!」
結はぴょんぴょんと跳ね、ベッドに顔を近づける。
「ママ、ゆっくりしててね。すぐ帰ってくるからね」
妻は微笑み、結の頬に触れる。
「ありがとう、結。パパを困らせちゃだめよ?」
「えー、困らせないよー。パパは結の王子様!」
夫は苦笑する。
「今日はパパとデート!」
妻がくすっと笑う。
「ふふ……楽しんできて。あなた、結をお願いね」
夫は一瞬、妻の頬に手を添えた。
「安心して寝ていろ。帰ったら、土産話を聞かせてやる」
「あなたが楽しみそうね」
「……否定はしない」
結はすでに玄関へ走っていく。
「パパー! はやくー!」
―――
エントランス。
佐川が深く一礼する。
「奥様はお休みになられましたか」
「ああ。今日は静かにさせてやれ」
「承知いたしました。結お嬢様、いってらっしゃいませ」
「いってきまーす!」
佐川は優しく微笑み、結のコートの襟を整える。
「今日はデートなんですって?」
「うん! ひみつのデート!」
夫は淡々と告げる。
「ただの送迎だ」
「違うもん!」
佐川は口元を隠し、柔らかく笑う。
「お気をつけて。運転手は既に待機しております」
ガラス扉の向こうには、磨き上げられた超高級車。
黒いボディが朝日を反射している。
運転手が後部座席のドアを開ける。
「おはようございます」
夫は軽く頷き、結を先に乗せる。
「さあ、レディーファーストだ」
「きゃー! ほんとのデートみたい!」
車内は静寂と上質な革の香りに満ちている。
結ははしゃぎながら窓の外を見る。
「パパと二人って、なんか特別だね」
「そうか?」
「うん! ママいないもん」
夫は一瞬、柔らかくなる。
「ママには内緒だな」
「うん! でもね、パパだけに教えてあげることあるの」
夫は眉を上げる。
「秘密か?」
結は顔を近づけ、声をひそめる。
「うん。ママの秘密」
「……秘密なのに教えるのか?」
「パパは特別だからいいの!」
夫は少しだけ笑う。
「それは光栄だな。で、なんだ?」
結は小さな声で言う。
「ママね、お星さまが好きなの」
「星?」
「うん。若いころにね、長野県で、いーっぱいお星さま見たんだって」
夫の表情が静かに変わる。
「……長野?」
「満点の星空っていうんだよ。空ぜんぶキラキラで、忘れられないって言ってた」
車は静かに滑るように進む。
夫は窓の外を見つめる。
「そうか……そんな話をしていたのか」
「うん。ママね、たまに夜、空を見るでしょ?」
「ああ」
「そのとき、あの星空みたいだったらいいのにって言ってた」
しばし沈黙。
夫は低く呟く。
「……とても良いことを聞いた」
「でしょ?」
「これは、パパだけの秘密だな」
「うん!」
夫は背もたれに体を預ける。
長野の満天の星空。
忘れられない夜。
妻の過去。
まだ自分が知らない、彼女の記憶。
静かに目を細める。
(星か……)
運転手が告げる。
「まもなく幼稚園に到着いたします」
結は嬉しそうに夫の手を握る。
「またデートしようね?」
「ああ。次は、もっと長いデートだ」
「ほんと?」
「約束だ」
結は満面の笑み。
車は静かに幼稚園前へ滑り込んだ。
夫はドアが開く瞬間、もう一度心の中で繰り返す。
――とても良いことを聞いた。
星空。
それは、次の“贈り物”になる予感がしていた。




