五月の約束
高層マンションのキッチンに、やわらかな昼前の光が差し込んでいた。
エプロン姿の妻が冷蔵庫を開け、ふと振り返る。
「佐川、今日は簡単なパスタとサラダでいいかしら」
「はい、奥様。食材は一通り揃っております」
佐川が静かにうなずく。その横で、ソファに腰掛けていた夫が腕時計を外しながら言った。
「外で済ませれば楽だろう。せっかくの休みだ」
妻は少しだけ眉を寄せ、でも柔らかく笑った。
「あなたが久しぶりにお休みなんですもの。家で、みんなでゆっくり食べたいの」
夫は一瞬、言葉を失い、ふっと息を吐く。
「……そうか。お前がそう言うなら」
そこへ、リビングからぱたぱたと足音。
「パパ! きょう公園いきたい!」
ピンクのワンピースを揺らしながら、結が飛び込んでくる。
夫は少し目を細めた。
「公園か。俺と行くか?」
「いくっ!」
即答だった。
妻がくすりと笑う。
「じゃあ、私たちは準備をして待っています。結、ちゃんとパパの言うこと聞くのよ?」
「はーい!」
佐川が一歩前に出て、丁寧に頭を下げる。
「いってらっしゃいませ。お戻りの頃にはお食事をご用意いたします」
「頼む」
夫は短く言い、結の小さな手を握った。
――――――
青空の下、並木道を歩く父娘。
結は手をぶんぶん振りながら楽しそうだ。
「パパ、あつくなるね」
「もうすぐ5月だからな」
「5月……あ!」
結がぱっと顔を上げる。
「ママのおたんじょうびだね!」
夫は少し目を細めた。
「そうだな」
「プレゼントどうするの?」
「何がいいと思う?」
結はうーんと考え込み、口を尖らせる。
「きれいなネックレス? でもパパ、いっぱいあげてるよね」
「……まあな」
「じゃあ、お花? でもそれもいつもだよね」
夫は歩きながら、ふっと笑う。
「お前は何をあげたい?」
結はしばらく黙り込み、それから言った。
「ママがびっくりするのがいい!」
「びっくりか」
「うん! すっごくうれしいびっくり!」
夫は少し考え込み、空を見上げる。
「今度の休みに、二人で探しに行くか」
「ほんと!?」
「ママには内緒だ」
結は目を輝かせ、こくこくと何度も頷いた。
「やくそくだよ!」
「約束だ」
小さな指と大きな指が、そっと絡む。
――――――
公園に着くと、結はすぐに走り出した。
「パパ! すべりだい!」
「転ぶなよ」
滑り台を何度も滑り、ブランコに乗り、最後は砂場。
「お城つくる!」
「随分大きい城だな」
「ママのお城!」
夫は少し驚いたように目を細める。
「……そうか」
「ママはお姫さまね!」
「違いない」
結は砂だらけの手で笑う。
時間が経ち、太陽が高くなる。
夫は腕時計を確認した。
「そろそろ昼だ。帰るぞ」
「えー、もう?」
「帰ったらまず着替えだ。砂だらけだぞ」
結は自分の服を見て、あっと声を上げる。
「ほんとだ!」
「ママに怒られる前にな」
「ママ、やさしいよ?」
「それでもだ」
結はくすくす笑い、夫の手を握る。
帰り道、少し汗ばんだ空気の中で。
「パパ」
「なんだ」
「きょうたのしかった」
「俺もだ」
「また行こうね!」
夫は結を見下ろし、わずかに口元を緩めた。
「ああ。また行く」
青空の下、二人の影が並んで伸びる。
家に戻れば、きっとキッチンからいい匂いがして、妻が「おかえりなさい、あなた」と微笑むだろう。
その光景を思い浮かべながら、夫は娘の手をしっかりと握り直した。




