第14小節 「父が奏でた夜」
⸻
夜。
静かな路地裏。
ネオンの明かりが雨上がりのアスファルトに滲んでいた。
一軒の古びたジャズバー。
木製の看板には、小さく店名が刻まれている。
店内ではレコードから流れる穏やかなジャズが、静かな時間を包んでいた。
⸻
カウンターの隅。
一人の中年男性がスコッチグラスを傾けている。
少し伸びた髪。
無精ひげ。
年季の入った指先。
かつて数多くのステージに立ったことを思わせる手だった。
⸻
黒川蓮司。
元ジャズトランペット奏者。
⸻
「……。」
琥珀色の酒を静かに飲み干す。
⸻
その時だった。
⸻
カラン——。
⸻
店の扉が開く。
ゆっくりと近づく足音。
⸻
「探したよ。」
⸻
蓮司は振り返らない。
⸻
「……何か用か。」
⸻
聞き慣れた声だった。
⸻
「俺に。」
⸻
「トランペットを教えてくれ。」
⸻
その言葉に、
蓮司の手が止まる。
⸻
ゆっくりと振り返る。
⸻
そこに立っていたのは、
息子――黒川透。
⸻
「……。」
⸻
「冗談はよせ。」
⸻
「俺に教わることなんて何もない。」
⸻
透は首を横に振る。
⸻
「ある。」
⸻
「だから来た。」
⸻
前日の夜
⸻
透は自宅へ戻ると、
珍しく母親の前へ座った。
⸻
「母さん。」
⸻
「一つだけ聞きたい。」
⸻
母親は驚いたように顔を上げる。
⸻
「親父は。」
⸻
「今、どこにいる。」
⸻
長い沈黙。
⸻
母親は少し寂しそうに笑った。
⸻
「急にどうしたの?」
⸻
「理由は言えない。」
⸻
「でも。」
⸻
「今だけは、親父の力が必要なんだ。」
⸻
透の真っ直ぐな目を見て、
母親は静かにうなずいた。
⸻
「……駅前のジャズバー。」
⸻
「毎週水曜日の夜だけ、演奏を手伝ってる。」
⸻
「ありがとう。」
⸻
透はそれだけ言って家を飛び出した。
⸻
父と息子
⸻
現在。
ジャズバー。
⸻
蓮司はため息をつく。
⸻
「お前。」
⸻
「俺のこと嫌いだったろ。」
⸻
透は即答する。
⸻
「今でも嫌いだ。」
⸻
その言葉に、
店主が思わず苦笑する。
⸻
「じゃあ何で来た。」
⸻
透は静かに答えた。
⸻
「仲間のためだ。」
⸻
「俺一人じゃ勝てない。」
⸻
「でも。」
⸻
「俺には、守りたい場所ができた。」
⸻
「その場所を守るには。」
⸻
「親父の力が必要なんだ。」
⸻
蓮司は黙って息子を見つめる。
⸻
その目に、
昔の自分が重なった。
⸻
夢だけを追い、
家族を置き去りにした若い日の自分。
⸻
そして。
⸻
今目の前には、
仲間のために頭を下げる息子がいる。
⸻
蓮司はゆっくり立ち上がった。
⸻
「……分かった。」
⸻
透が顔を上げる。
⸻
「ただし。」
⸻
蓮司の表情が変わる。
⸻
演奏家の顔だった。
⸻
「中途半端な指導はしない。」
⸻
「泣き言も弱音も聞かん。」
⸻
「逃げるなら今だ。」
⸻
透は小さく笑う。
⸻
「望むところだ。」
⸻
特訓
⸻
翌日から。
⸻
朝。
⸻
誰よりも早く学校へ行き、
朝練。
⸻
昼休み。
⸻
譜面と向き合う。
⸻
放課後。
⸻
仲間と合奏。
⸻
そして夜。
⸻
ジャズバー。
⸻
蓮司の特訓が始まる。
⸻
「息が浅い!」
⸻
「音を飛ばすな!」
⸻
「肺じゃない!」
⸻
「腹で吹け!」
⸻
何度も。
⸻
何度も。
⸻
何度も。
⸻
唇が切れた。
⸻
指が震えた。
⸻
それでも透は、
トランペットを置かなかった。
⸻
一方、
学校では玲央がチューバを磨き続け、
美琴はクラリネットを吹き込み、
奏は全体の演奏を何度も組み立て直していた。
⸻
誰一人として、
立ち止まらない。
⸻
夜。
⸻
練習を終えた透へ、
蓮司は静かに缶コーヒーを差し出した。
⸻
「今日はここまでだ。」
⸻
透は息を整えながら受け取る。
⸻
「……ありがとう。」
⸻
その一言に、
蓮司は少しだけ目を細めた。
⸻
「礼を言うのは。」
⸻
「コンクールが終わってからにしろ。」
⸻
透は小さく笑う。
⸻
「分かった。」
⸻
夜空には、
夏の星が静かに瞬いていた。
⸻
地区コンクールまで――残り十二日。
⸻
第14章
「父が奏でた夜」




