第5話 出発点はいい、でも出発するな
黒いタオルに包まれた僕は、
柔らかな赤い座布団の上に置かれていた。
動けない。
でも不思議なことに、
球体の姿でも視界は三百六十度あった。
僕はすぐ周囲を注意深く見回した。
元に戻れたら、
どの動線から逃げるのが早いのか確認したかった。
窓はある。
でも狭すぎて、黒牙の家の中は少し薄暗い。
数メートル先の木の机には、
男の小さな神像が置かれていた。
そこから立ちのぼる煙のようなものが、ゆっくりこちらへ流れてくる。
外から見た木の扉は、内側がまさかの鋼鉄製だった。
アフーは僕のすぐそばであぐらをかいていた。
真剣な顔で前を見つめている。
少し離れた場所の鏡越しに、今の光景も見えた。
灰色のローブを着たアフーは、まるで占い師みたいだった。
そして僕は、赤く光る水晶玉そのものだ。
どう見ても邪教の儀式現場じゃないか。
黒牙が僕の目の前を、何度も行ったり来たりしていた。
眉間のしわは、今にもつながりそうなくらい深い。
「白爪、まだ戻らぬのか?臣は心配でたまらん!
ああ、カイオス様の代理者殿。
臣が厄介事を片づけるまで、少し待っていてくれ。
もし無礼があれば、どうか許してほしい。」
「ごめんね、桃晝。ちょっとだけ我慢して。
私が桃晝の監督者だって、黒牙を説得できればいいの。
そうすれば黒牙も、桃晝を元に戻してくれるから。
だって私は、有能な女神なんだから……。」
女神は監督者らしい自信に満ちた顔で、
嬉しそうに小声でそう言った。
今の僕には声は聞こえない。
でも視覚は鋭いから、唇の動きでだいたい意味はわかる。
神の代理人か。
初回にしては、やけに自然で流暢に言えているな。
でも今の僕って、
逆に表情も動きも気にしなくていい状態じゃないか?
正直、この数時間ずっと、
赤ん坊らしく見えるように気を張っていた。
今こそちゃんと休める時間だ。
落ち着け。
ツッコミはするな。
このまま気を抜いて、機会を待とう……。
「さっき入る前に、
高密度石化法陣はもう張ってあるの。
もし黒牙がうなずかなかったら、切り札を出すよ。
わあ、桃晝、なんかどんどん光ってない?」
黒牙は目を見開き、近づいてきて僕を毛布で包み直した。
「それは感情の揺れが大きい合図だ。妙だな?
この部屋には、
そんなに刺激になるものはないはずだが?」
「あ、消えた……!」
「やはりカイオス様から賜った神の品は、
個体ごとにきちんと落ち着かせる力があるようだ。
もともと白爪のために用意した黒い毛布だが、
他の幼体にも効くとはな!」
くそ、唯一の視界まで闇に沈んだ……。
落ち着け、僕。
視界を塞がれたら、アフーが何をやらかすのか分からない。
「え?
完璧な作戦を思いついたよ。
桃晝を転がして黒牙の気を引いて、
その間に私が杖で……うわっ、まぶしっ!」
「この子は敏感だな。どうしてすぐ強い赤い光を放つんだ。
毛布を全部かぶせてくれ。
数分たってから外せばいい!」
僕は目をこするアフーの姿を見た。
しかも口を尖らせている。
僕を玉みたいに転がす気か。
次は本気でまぶしく光って、目を潰してやる。
「神の代理者殿、球体が放つ魔力の光は感情判断がかなり正確だ。
僕らには外壁がないからな。
あとで、光が素早く点滅していないか見ていてくれ。
それか、さっきみたいに極端に強い光を出していないか。
前者は興奮の合図で、後者は敵意だ。
臣は少し環境を確認してくる!」
「黒牙、大丈夫だって!」
そう言うと、黒牙は煙をさらに強くした。
しばらくしてから、じっと僕を見つめてきた。
まずい。
なんだか少し眠くなってきた。
ちゃんと、二人が何をしているのか見ていないと。
「臣は、だいたい何をしに来たのか察している……」
「村長って本当に頭がいいね。
僕の目的がわかってるなら、
無駄話はいらないよね?」
アフーはひどく厳かな顔をしていた。
交渉の達人みたいな自信まで漂わせている。
今ってどういう状況なんだ?
でもまた毛布をかけられたくないし、とりあえず我慢だ。
「臣がもちろんわかっているとも。
『一般民衆』として観光に来たのだろう?
すまないな、この件に巻き込んでしまって。
せっかくの観光の時間を無駄にさせた……。」
「ふふん?
僕を一般民衆扱い?
私がもう外でどれだけ……。
あっ、桃晝がずっと赤く点滅してる!」
アフーはすぐに崩れた顔へ戻った。
そのまま、慌てて僕のほうを振り向く。
「臣も見えている、少し待て。
桃晝、まず落ち着くんだ。
臣は同族として、お前に何かする気はない!」
黒牙が必死に手を振っているのが見えた。
今すぐ手があったら、アフーを外へ引きずり出したい。
さっきの会話を見ただけで、僕は気絶しそうになった。
落ち着け、桃晝。
「おお、戻ったか?」
「桃晝はすごいな。
臣の言いたいことをすぐ理解できるとは。
桃星がすぐ身分を与えたのも納得だ。
だが臣としては、やはり早すぎると思う!」
黒牙は歩くのをやめ、顎に手を当てた。
すると窓辺から鳩のような生き物が飛んできて、彼の肩に止まる。
黒牙はその鳩を数回なで、足についた紙の巻物を外した。
「白爪、ようやく戻ったか。
少し待て、これから桃星の返事を確認する!」
その鳩は突然、僕のそばへ飛んできた。
体が黒い毛布にくるまれ、
そのままゆっくり桜色の光を放つ球体へと変わっていく。
アフーはそれを見て、興味津々で近づいた。
「黒牙、この子すごくおとなしいね!」
「白爪はとても安定した子だ。だが、
臣はあまりにも従順で感情が薄いのが気に入らん。
そういうのは危うい。
初期なら植物に擬態していても問題ないが、
生き物なのに感情がまったくないのは不自然だ。
擬態先の同族に、異常を見抜かれやすい!」
「でも黒牙、誤解してるよ。
私は観光しに来たんじゃないの!
私にはもっと大事な用事があるの。
桃晝に関係することだよ。
もったいぶらずに言うね。
私はこの子の監督者なの!」
「監督者?
すまない、臣はその件を失念していた。
臣も夢を見た気がする。
カイオス様が、お前が来ると言っていた。」
「それなら話は早いよね?
じゃあ桃晝を連れて帰ってもいい?
それと、あの身分も……。
桃晝に返してあげられる?」
「お前が焦っているのはわかる。
だが、それは臣には認められぬ!」
黒牙の譲らない気配を見て、アフーは僕を一度見た。
それから黙り込み、考え込んでいた。
たぶん僕に早く迷宮攻略の準備を始めてほしいんだろう。
でも僕は、今すぐ身分が戻るとは思っていない。
何年か待つくらいでいい。
今はそのほうが自然だ。
その時、横からかすかな桃色の光が見えた。
僕はそちらへ視線を向ける。
白爪の球体の表面は、まだ深い桜色のままだった。
僕の光が強すぎて、反射しているだけなのか?
「観光促進条例は、まだ村民の審議を通っていない。
君は桃晝のフラダンスを監督しに来たのだろう?
だが臣は、そのために規則を破るつもりはない。
臣は神の善意もわかっている。
百盞村の発展の特色を増やしたいのだろう!」
いつの間にか白爪が僕のそばまで寄っていた。
弱い桜色の光を放っている。
「はあ?
私はフラダンスの監督をしに来たんじゃないよ!!
どうやら交渉は失敗みたいだね。
なら、もう実力で……。」
アフーの顔が陰っていく。
そのまま何度も首を振った。
「……わっ、
桃晝が七色に点滅してる!
黒牙、どうしよう?」
「早くタオルをかけろ!
まさかここまで敏感な子だったとは。
やはり周囲の環境が、この子には刺激が強すぎたのか?
だが臣も、こんな反応は初めてだ。
何を意味するのか調べねば!」
「えっ?白爪まで七色に点滅してる!」
「白爪? 七色の光だと?」
僕はすぐ隣の白爪から、
かすかな幼い声が漏れた気がした。
「すごい、
きらきら……すごく……きれい!」
「白爪、臣のかわいい子よ。
ついに感情を覚えたのか?
だが七色のきらきらとは、どういう感情なのだ?
まあいい……臣がまた調べてみよう!」
黒牙は満面の笑みで駆け寄った。
そして白爪をそっと抱き上げる。
部屋の中は、白爪の放つ七色の光で点滅し続けた。
「これは成長の瞬間なの?」
その光は、感動しているアフーの顔まで照らしていた。
僕だけかな、ここに音楽が流れたら舞踏会みたいだと思ったのは。




