退魔の弓
背中を押されたと思ったら、1階と2階の間、踊り場に立っていた。
「保健室で休んでいよう。どうせ時間まで出られないんでしょう?」
そういう声が下から聞こえた。船河君だ。先ほどまで3階にいた筈なのに。私は声のするほうに降りて行った。保健室に向かう二人に、腕組みをし、黙って見送っているまひる君。
これは、時間が戻った?
玄関にある時計は17時45分を指していた。本当につい先ほどまで、悪夢のような光景の前にいたのだ。自分の声が別の場所からして、背中に痛みが走っていた。和田先生がナイフで刺していたのは黒くて人ほどの大きさのサナギだったのに。私は一人廊下にいるまひる君の後ろ姿を凝視した。『この黒い奴の発生源はお前だろう。』確かそう言っていた。まひる君はいったい何を知っているんだろう?聞いて答えてくれる人ではないのは確実だ。
そのまひる君が、保健室の中に向かって話しかけた。
「俺はあいつら探してきます。ここから動きませんように。」
「「はあーい」」
二人の間延びした声が響いた。あれ?最初と流れが少し違うような。保健室の扉を閉めて、足元からちょろっと飛び出した白いウサギを追いかけて行こうとするまひる君に、私は声をかけた。
「あの、あいつらって、さえぎのこと?」
ぴたりと止まったまひる君と目が合った。
「ああそうだ。」
「一緒に行ってもいい?」
「・・・ついてくるのは構わない。」
私の記憶違いだろうか?でもこの嫌そうな顔には見覚えがあった。歩き出したまひる君を前と同じように小走りで追いかけた。前とは違い黙々と足を動かした。行先はやっぱり体育館だった。まひる君が体育館の重たい扉を開けにかかり、ウサギはそれを静かに眺めていた。私が撫でようとすると嫌がってまひる君の足の下に逃げ込むことは知っていたので、今度は恨みがましくその綺麗な毛並みを眺めるだけにした。
人一人が通れるほどの隙間ができたとき、まひる君はするっと中に入って行った。私も中を覗き恐る恐る一歩踏み出した。
何事もなく体育館の中に踏み出した。中は前と変わらずうねる黒い液体のようなものが床にこびりついていた。
「さえぎ。」
まひる君はつぶやいた。そのつぶやきに顔をあげステージ前を凝視した。一人、さえぎだけ。
「・・・え?ありさは?つむぐは?」
てっきりここにいるものだと思っていた二人がいない。なんで?私は黒い液体のギリギリまで行って目を凝らした。まさかあの黒い液体に、サトシのように飲み込まれてしまったのか?まひる君が黒い液体をものともせず、ウサギとともにさえぎのところに向かって行った。やはり難なくさえぎの元にたどり着いたが、ありさとつむぐはいないようだった。どこに行ったんだろう?まひる君がさえぎに手を貸し立たせて、前とは違いゆっくりと体育館の後ろのほうに戻ってきた。あれ?前は何で走って後ろまで来たんだっけ?そうだ、サトシがステージの上にいて、悲鳴を上げていたんだ。
「サトシもいない?」
本当にいないのか、まひる君にステージに上がって確認してきてほしかったが、そう言えば前、サトシに気が付いたのは彼だったので、彼が気が付かなかったということはいなかったということなのかもしれない。
「なんでこんなになってんだ?」
かしゃん。
さえぎの疑問にまひる君が答える前に、ウサギがいた場所に弓が落ちた。
「弓、だな。」
さえぎがそれを拾った。そしてまひる君の顔を見た。彼は首を振った。
「弓道部の弓じゃない。どちらかと言えば神社の神具の弓だ。」
持ち手のところに入った模様を指でなぞった。
「あ、退魔。」
「しかも桃の木でできてる。退魔の弓だ。神社の蔵にあったやつじゃないか?神事に使うやつだ。」
「ウサギが持ってきたな。」
溜息とともにさえぎが吐き出すと、まひる君がまあまあというような声色で言った。
「お前が心配だったんだろう。なかなか帰って来ないから。さっさと帰ろう。」
「そうだな。」
そう言って、二人は歩き出した。どうしよう、あそこにサトシはいないのだろうか?まひる君にまた弓をパンと引いてもらって、あの黒く蠢くものを消してほしかった。しかし何といって声を掛けたらいいんだろう。私は前の記憶はあるが、さえぎもまひる君もどうやら無さそうだ。突然おかしなことを言い出したと思われたらどうしよう。前はまひる君が弓を引いたらパンと無くなったんだ、そしてサトシが出てきたんだと言っても、今はまひる君がサトシに気づいていない。もう体育館から出て行ってしまった二人の背を追って、私も後ろ髪引かれる思いでそこを後にした。
保健室の扉を開く直前、中から話声が聞こえてきた。
「あはは、ほんとに目を覚まさないね~。」
底抜けに明るい船河君ののんきな声だ。こんな状況でも彼はいつも余裕たっぷりだ。まひる君が弓を持つさえぎの代わりに扉を引いた。
「ほわあああ、いてえって?!」
そこで大きなつむぐの声が響いた。隣でありさも、んと声を上げていた。
「つむぐ、ありさも?!なんで保健室に?」
思わず声をあげた私を、さえぎがちらりと見た。
「保健室を開けたら、つむぐと林道さんと玉木さんが座ってたんだよ。あっちのベッドには宿木と貝原が最初から寝てたよ。全員声をかけてもつねっても起きないからさ、どうしようと思ってたとこ。そっちは何かあったの?その弓どうしたの?」
船河君がにこりと笑った。前と違う。ありさが隣に座っていて、まだに目を覚まさない玉木さんを心配していた。つむぐは船河君につねったことを抗議していた。
「ウサギが持ってきたみたいだ。」
「うふふふ、心配し過ぎではないですの?」
微笑ましいものでも見るようにウサギの頭を撫でているあの女をしり目に、さえぎはノーコメントで開いているベッドの上にその弓を置いた。そこくらいしか置く場所がなかった。
「それで、ここ、なんなんだよ?」
つむぐの疑問に答えられる人はいないだろう。入口の引き戸に寄っかかっているまひる君の知らん、という一言に集約されていた。さえぎとありさはサトシと鈴之助の顔色を見ていた。
「顔色は悪くないわね、良かった。呼吸もしているし、寝てるだけなのかな?」
「そう見えるけどな。先生がいたら見てもらいたいな。」
そう言えば前はこの二人を置いて3階に行ったんだ。その後どうなったのか。いや、だから戻ってきた?全員連れて行かないと出られない?しかしいくら人数がいるとしても意識の無い男子生徒を連れて3階なんて現実的でない。
3階と言えば。
本当にバカらしい疑問がある。ありさとつむぐに、私の姿が見えているのかということだ。確か、確かあの時玉木さんは、私に話しかけるさえぎに、こう言った。『音無君は先ほどから、どなたと話しているんですか?』と。あの女も、船河君も、まひる君も、さえぎも、私と話していたから全く違和感に気が付かなかった。あの時ありさもつむぐも怯えた顔をしていた。思えばあの心配性のありさが、私に話しかけないなんてことはないのだ。高校に入ってからだって、私の体をよく気遣ってくれていた。普段ならこうしている間に一言くらいは声をかけてくれるはずだ。今、そんなに話さないクラスメイトの男子生徒である、鈴之助とサトシの様子をうかがっているのだってその証左だ。つまりありさが私に話しかけないのはおかしい。バカらしいが、私の声が聞こえる人と聞こえない人がいるのだから、確かめてみなければならない。
「ありさ。」
「保険の先生ってどこに行ったのかな?」
ありさはこちらを振り向きもしない。
「つむぐ。」
「鍵が開いていたんだからそのうち帰ってくんじゃねーの?」
つむぐは頭の後ろで手を組んで、時計を見ていた。
「ありさ!」
「アレ?時計止まってねーか?」
「つむぐ!」
叫んでも二人は全く意に返さない。周りは静まり返っていた。まるで自分がこの世界から切り離されてしまったような感覚に陥った。焦り、憤り、理不尽さ、なんで私だけ?
「あああああぁぁぁあああぁあっぁぁぁああ!」
ふいに二人が振り向いて、目が合った。確実に目が合った。やっぱり見えていたんだ!もう、変ないたずらしないでよね二人とも!
「まひる君、呼んだ?」
ありさの目線は入り口で足元に来たウサギを構って撫でていた、まひる君に向いていた。
「・・・、いや、呼んでない。」
「そっか気のせい、ごめんね。」
「いや。」
なんで?見えていない?見えていないの?どうして?
意味が分からない。なんで?意味が分からない。私は保健室を出て、おもむろに階段を駆け上がった。やっぱりこの学校はおかしい。全部間違っている。階段を上がる。そうすると次第に体が重くなっていく。水の中を歩くように、昔小学生のころあった着衣水泳の時のように、階段を時間をかけて登っていく。
3階について視線を鷹揚に廻らすと、化学室の前に和田先生がゆっくり歩いていた。廊下を少しずつ移動し、往復していた。あの先生には背中を刺された。あの鋭い痛みは本物だった。しかし私はその先生のところに歩きだした。勝手に足が動いたのだ。緩慢な動きで、重い体を引きずるように壁伝いに歩いていく。一歩一歩がなまりの重さだった。
先生の往復する廊下に差し掛かった時、足元に何かいるのが分かった。わかっていたというほうが正しいかもしれない。体長は1m以上、黒い液体をまき散らし、廊下に線をつけながら蠢き、歩く大きな芋虫。その背からは体長20センチほどの、歩く芋虫に比べれば小さな芋虫が生まれては零れ落ち、大きな芋虫に踏まれて黒い液体をまき散らしていた。
和田先生はその小さな芋虫を踏まないようによけながら、ゆっくり往復する大きな芋虫の脇について一緒に歩いていたのだ。
「おや、早かったね。」
私に気が付いた先生が、振り向いた。同時に大きな芋虫が体をピタリと止めた。芋虫の目に、和田先生が持っていたナイフが映った。
「そのナイフ、何に使うんです?」
「あ、バレた。君の位置からだと見えないと思うけど。」
そう言っておもむろに片膝をつき、芋虫にナイフを振り下ろす。
だめだやめて!それは痛いの!
緩慢な動きでナイフを振り下ろす先生に、しがみ付こうとなまりの一歩を踏み出した。物事すべてがスローモーションで、肺で息をするのも億劫だった。
病院のロビーに行くと、腕に包帯を巻いたサトシが、外来の椅子に座っていた。
「あんた何やってるの?」
手術を明後日に控え落ち着きなく病院内を歩き回っていた私は、知り合いに会い、声をかけた。
「しくった。」
顔をあげたサトシは一言言ったが、顔にもあざがあった。もしかしたら全身傷だらけなのかもしれない。
「ケンカ?」
「調子乗ってる後輩がいたからしめてたら、仲間が現れて、大人数で。クソおやじにも殴られるし、最悪。」
だからへそを曲げていたのか。そっかと笑えば、サトシは眉間にしわを寄せた。
「ののか、暇だからちょっと付き合えよ。」
「何?」
そう言われれば、こちらのほうがもっと暇だし、落ち着かないので隣に座った。
「もしも、もしもだ。知り合いの心臓が、お前の適合だったらどうする?そいつはそれを知らないし、臓器移植の同意もしていない。」
「それって、どうにもできなくない?」
臓器移植の同意もしていないし、大体知り合いってことは若いだろうし、ある日突然何があるか分からなくはあるが、望みは薄い。
「じゃ、そいつがそのまま事故に遭ったら?」
「その前に同意していってほしい。」
「そうだよな。」
「そうよ。」




