17時45分②
幼馴染。
林道ありさ 柔道場の一人娘。黒帯所持者。
佐竹つむぐ ありさの柔道場に通う、小柄な男子。同じく黒帯。
音無さえぎ このあたり一帯の中で一番大きな音無神社の息子。神事のために髪を伸ばしている。ののかの 好きな人。
とたんに体育館の床が目に入った。独特の埃っぽい空気に、今、自分が巻き込まれていることを思い出した。
学校から出られなくなったんだ。
目線をあげるとまひる君と、ウサギの後ろ姿が見えた。
ウサギか…。
その視線の奥、ステージに寄りかかって三人、生徒が座っているのが見えた。
「さえぎ…、ありさ、つむぐも…!」
起き上がって駆け寄ろうとして、足を止めた。
黒い液体のようなものが床にこびりついていた。まひる君の隣に並ぶように動きを止めた。そこから先は、黒い液体がまきちらされている。しかもただの液体ではない。動いているのだ。光沢ある体をグネグネと動かし、這いずって跡が残っている。
何だろう、見覚えがある。
「これ、窓の外の…?」
「そう見えるな。」
独り言に返事が返ってきて、声の主を見る。まひる君はこんな時でも冷静沈着だった。
「三人とも無事のようだ。怪我なども見たところない。ただ、この黒いのが邪魔だな。」
うねうね這いずり回る無数の黒い液体。これもまた異形だろう。確かにこれを何とかしないとあちらにたどり着けない。さえぎたちまでは四,五メートル離れている。
「が、面倒くさいから踏んでいこう。」
まひる君が躊躇なく一歩踏み出し、黒いうねうねしたそれを踏み潰そうとした。
「ちょちょ、ちょっと待って、こういうのって触らない方がいいんじゃないの!?」
何してんのまひる君というかよくそんな気持ち悪いモノ上履きのスニーカーで踏めるね、私絶対嫌だよ!
「お、こいつら避けるぞ。」
そう言いながらずんずん進んでいく。それについて行くウサギも、平気のようだ。ウサギとまひる君の周りだけ、体育館の綺麗な床が見える。え、大丈夫なものなの?これ。明らかに私の本能が嫌だと言っているんだけど?触ったら危険だって。
そう思ったが、まひる君は大丈夫そうなのでちょっとだけ足を踏み入れてみた。すると私の足からは避けることなくぐちゃ、という音を立てた。はみ出た黒いものが私の靴にべちゃべちゃと音を立てながら登ってきた。
うわ、やっぱり気持ち悪いし、私からは避けなかった!慌てて靴を引っぺがし、後ろに引いた。くつには黒い液体がべっとりついている。
「何よこれ、なんでまひる君は平気なのよ。」
ああでもよく見れば、さえぎ達の周りもこの黒いものは避けているようで、体育館の床が見える。そこまで行きついたまひる君はつむぐの前に片膝をつき両手で思いっきり揺さぶった。小柄なつむぐはすごい勢いで首を前後に振られている。
「はがっ何?どうしたの!?」
しかしまひる君は手を止める気配がない。
「おーい起きろ、佐竹。今日一緒に本屋に寄るんだろ。」
「起きてる、起きてる!やめーい!」
とうとうつむぐはまひる君の両手をグイッと上に持ち上げた。
「あー…まひる、ほどほどにしろ。」
寝ぼけ眼でゆらっと視線を巡らせたのはさえぎだ。一瞬目が合ったがすぐにそらされてしまった。神事で使うとかで伸ばしてある髪が、さえぎの眼鏡にかかって止まった。隣のありさも目を開けた。
「え、何ここ…、って、ま、まひる君…!」
ありさの頭の後ろで一括りにされている髪が、驚きに合わせてパサッと跳ねた。すぐさま顔を赤くしてすっと視線を逸らした。ありさ、隣にさえぎもつむぐもいるよ。というかわかりやす!紅色のスカートから延びていた足をサッと折って、座りなおしている。普段はきっぱり、さっぱりした思い切りの良い性格だが、最近はずっとこんな調子だ。
まひる君はまったく気が付いていないのが奇跡だと思う。そのまひる君が三人をじろじろ見た。
「みんな、怪我無いな。」
背中から察するに、少し柔らかな声色だ。
「なんなんだよこの黒いの。というかなんで俺こんな所に座ってんだよ?まったく、どうなっている?」
つむぐは胡坐をかいて首をかしげた。
「私も体育館に入った所までは覚えているけどその後が分かんない。」
ありさは眉間にしわを寄せている。同じく難しい顔でまひるの足元のウサギを見ていたさえぎは瞬きを二三すると立ち上がった。
「原因は何だ?まひる。」
さえぎの短い問いかけにまひる君も立ち上がった。
「俺はしらん。」
二人も慌てて立ち上がる。まひる君がさりげなくありさに手を貸していた。
「けど、あと一人そこに倒れている。」
まひる君はステージ上に視線を投げた。私も黒いものを踏まないように少し近づいた。確かに男子生徒が倒れている。黒いドロドロとした、原油のような液体に包まれているが。
「何よ、あれ…、人?そうは見えないけど…。」
「あ、よく見たらこの黒い奴動いてるじゃん、気持ち悪!」
ありさとつむぐは同時に声をあげた。とたんに黒いドロドロが激しく動き出した。その男子生徒から吹き出すようにいきなり質量が増し、さえぎたちに襲いかかった。
さえぎが片手を前に出す。すると足元と同じようにさえぎ達の周りだけ半分に割れた。そこの空間だけぽっかりといつも通りだ。体育館の床が見える。私は思わず後ろに下がった。足元までざぷんと原油が押し寄せ、止まった。私にはかかるのに何であちらは平気なのだろう。
「ああ…ああああ…あああああああああ…ああ…ああああ…ああ…」
黒い液体のでる先の、男子生徒から不自然な声が漏れだす。聞き覚えある声だ。
「男の人の声ね。」
口をおさえながらありさがステージ上を見ていた。さえぎはありさとつむぐを半歩下がらせ、自分の背に隠した。
「あいつは…、人か?」
さえぎのつぶやきに私はハッとした。あの声、聞き覚えある。男子生徒だ。
「さえぎ、あの、今の声、貝原じゃない?貝原サトシ!」
私は叫んだ。同じクラスだ。幼馴染のさえぎ達とは違うベクトルで、一応知り合いだ。
「貝原か。七門がよく一緒に居る。」
まひる君がつぶやくと、壇上でその人型がぬらりと立ち上がり、ぼたぼたと全身から黒い液体を塊のように落としながら歩き出した。
「全員、後ろまで下がれ。」
まひる君は鋭く指示を出し、先導するように黒い道を切り裂いて走る。さえぎは一番後ろからしんがりを務めている。みんなが私のところまで来た時、ステージ上からそれは、足を滑らせて地面に落ちた。ヒトガタが地面にドプンと落ちてまたヒトガタに成形された。さえぎは体ごとそちらを向くといまだ声の漏れ出すそれを睨み付けていた。
まひる君が両手を広げた。まるで舞台の登場人物のようだ。彼は不思議と存在感がある。地味な見た目なのに、目線が素通りしないのだ。
「さえぎ、どうするかお前が決めるべきだ。“私はそれを支援しましょう。”」
雰囲気がいつもと少し違う。肌がびりびり緊張している。檻の無い場所でライオンに対峙したような気分だ。
そう感じたのはどうやら私だけではないようで、さえぎの背中が少し揺れた。
「…、分かった。」
何時になく歯切れ悪く、しかし確かにそう言った。いつの間にか白いウサギがさえぎの目の前にいた。くるりと一回転してカシャンと軽い音を立てて消え、その場に弓が落ちていた。
「弓、か。」
つむぐとありさはまひる君の顔を見た。弓と言ったらまひる君だろう。なんたって弓道部だ。さえぎがそれを渡した。
「“ご助力願う。”」
まるでさえぎの神社で行われる神事の一節のようで、私たちは口出しできず、息をひそめていた。
「“承知しました。”」
まひる君は何時もの所作で姿勢を正す。流れる動きは舞いの様。弓を構え引いた。
空気がまた変わった。深緑の清廉な空気を感じる。同時に畏怖もだ。深い森の境目、ここから先は人間の世界ではない線引きが、今確かに私と彼の間には在った。
頭の先から足先まで震えがズッと下がってきた。首と襟の隙間から冷たい風が入って来るのだ。
黒く蠢いていたそれらも、空気のかわりように当然気がついたらしい。私たちと同じように、息をのんでいた。いや、矢をつがえていないにもかかわらずこんな畏怖を感じるのだ。ましてやそれを向けられているのだ。
身を固めて当然だろう。
ビィン。
弓が鳴る。音だけだ。しかし黒い塊はぱあん、と音を立てて飛び散り、崩れ去る。そこには新鮮な空気だけが残った。
まひる君は続けて三回弓を鳴らす。そのたびにどこからか新しい空気が入ってきた。
弓が鳴るたびに黒い塊は縮小し、小気味よくはじけ飛んだ。最後の一回で、頭を抱えた男子生徒がのけぞり後ろに倒れた。
そして浮遊感を感じた。




