第43話 現実として目の当たりにすると冷静さなど吹き飛ぶ
「橋を一本渡っただけで、明らかに空気が変わるのだな」
「心構えとしても、異国同様に警戒なさるがよろしいかと」
こちらの言葉に同意しながら、ミナが注意を促してくる。
ガスパールとの婚約解消が成立し、自由の身となってから数日後。
私はミナを伴い、大公家からの賠償の一つとして獲得した土地の現状確認のため、王都の東部に位置する地区を訪れていた。
「まだ昼だし、そこまで荒んだ気配はないか……いや、だいぶ良からぬ視線を幾つも感じるな」
「監視にせよ値踏みにせよ、この地にいる間はついて回りそうです」
「地味な服装で固めようとも、やはり気品が滲み出てしまうか」
「護衛もなく美女と美少女が貧民街を歩いているだけで、周囲の興味を引くには十二分とも言えますね」
ニースベルグの東縁――東部外縁は、かつて存在した練兵場を中心に発展した地区だ。
王国の東北に蟠踞する遊牧民連合ヴィーネンの来寇に備えて王都が城壁で囲まれ、運河が通されたことで隣接していた地域と隔絶され、練兵場が城壁外の西側に移動した跡地に監獄や捕虜収容所が作られる――そんな変遷を経て、現在は一種独特の雰囲気を有した場となっている。
練兵場帰りの兵を主な客としていた酒場や娼館は、時代と共に客層を変えながらその数を増やし、今では王都有数の歓楽街を形作っていた。
なので、東縁地区にはかなりの金額が流れ込んでいるのに、住民たちは総じて貧しく治安が悪い状況が長年続き、貧民街と称されるのが常態化している。
理由は様々あるのだろうが、最大の原因はおそらく彼の地を本拠とする『東縁地区牧人協会』――通称『東牧会』が野放しになっているせいだ。
「ラッドたちへは連絡済みだな?」
「呼び出しの手紙は、手土産のクッキーに忍ばせておきました」
「普通に渡さぬか! 気付かれず捨てられたらどうするのだ」
「不埒者が五人や十人来ようと、我々でどうにかなりましょう」
「その点は心配しとらんが、そういうことではなくてな……」
練兵場があった時代、将兵の絡んだ事件は憲兵によって処理されていた。
しかし、あまりの発生件数の多さと、裁定が軍人に有利すぎるという問題があり、地区の有力者は当時の軍高官らに対し、地区住民が独自の防犯組織を設立し、運営するのを認めてくれるよう申し出る。
真摯な説得によってそれは許可され、練兵場に併設された牧舎で軍馬の世話に従事する牧人たちを中心に、街を警備する集団が作られることに。
何度か名前を変え、現在の東縁牧人協会となったその組織は、今も東縁地区の治安維持を担当している。
その一方で、歓楽街の利権を握る貴族や大商人との癒着が骨絡みとなり、街の安全よりも優先するものが多々ある暴力集団へと変質していた。
「チンピラや追剥ぎなら蹴り倒して終いだが、東牧会が相手だと少しばかり面倒なことになる」
「揉めたところで、こちらが侯爵家の者と知れば退くのでは」
「常識や損得を無視し、矜持や感情を基準にする愚物が、結構な頻度で存在しているのはミナも知っておろう」
「それは……はい」
この十年、私の苦悩の種となっていたガスパールやクリスティアンに思い至ったのか、ミナは渋い顔で頷く。
「しかも東牧会は、迂闊にトラブルを起こせば相手が貴族でも苛烈な暴力を用いて報復する、武闘派な姿勢を貫いて現在の地位を得ている……だから、やるとなったら徹底的な潰し合いになるし、多勢に無勢すぎて殲滅するのも一苦労だ」
「苦労はしても負ける気はない、と」
「当然な。ただ、休暇中に諸々片付かないのは困る。まぁ、多少の不快や無礼があっても目を瞑り、対立は極力避けるとしよう」
ヘラッと言い放てば、ミナは黙って頭を下げて承知の意を表す。
本音の部分では、東牧会はいずれ解体するか壊滅させねば、と考えている。
前世では数年後、若手幹部らが主導するクーデターが発生して組織は激変。
現時点でも王都全体に隠然たる勢力を持ち、周辺都市にも影響を及ぼしていた東牧会だったが、クーデター以後は更に組織を拡大。
ブラウトリアが帝国になる頃には、全土の裏社会の大半を傘下に収めるに至った。
組織の実権を握った人物は、本名も経歴も謎に包まれていた。
だが、皇妃となった私が情報部に調査を命じ、ある程度までは判明する。
スタニスワフ・エリン――ウィンデン出身の流民で、少年時代から東牧会の使い走りだったエリンは、やがて頭角を現して幹部の地位に就き、二十歳前後で首領に。
やがて組織の全力を挙げて革命軍とエルナダ連盟を支援し、国を亡ぼす元凶の一つとなるこの男の登場を阻止するためにも、早めに対処しておかねば。
「……子供が多いですね」
「ふむ。平民の子は大体が、幼くして働くのだったか」
ミナに答えながら、大部分が開店前の盛り場を眺めた。
言われてみると、やたらと忙しそうに動き回っている少年少女が目立つ。
私と同世代以上は少なく、殆どが7、8歳から12、3歳くらいだ。
料理の仕込みをする少年に、入口周辺の掃除をする少女。
残飯の詰まったバケツを、重そうに引きずっている幼児までいる。
「あんな小さな子も働かされとるのか」
「あれは……食料の確保ですね。ゴミ捨て場で集めたのでしょう」
「食うのか!? 夏場の、腐りかけた残飯だぞ?」
「頼るものがない浮浪児にとっては、それも仕方ないことです」
呆然と眺めていると、幼児に近付いた初老の男がバケツに手を伸ばす。
幼児と同様にボサボサ髪で、薄汚れたボロを纏っている。
重い荷物を代わりに持ってやるのか、と思ったら男は残飯バケツを奪い取り、小走りでどこかに消えていった。
泣き出した子供に駆け寄ろうとすると、肩を強めに掴んで止められる。
振り返れば、眉間にシワを寄せたミナが私の目を見て言う。
「あの子に小銭や食料を施しても、また誰かに奪われるだけです」
「しかし、放って置くのも……」
「似たような境遇の子供は、この辺りに百や二百はいるでしょう。その全員を救うのに必要なものは何なのか、思い出してください」
ミナの淡々とした物言いに、逆上しかけていた頭がスッと冷える。
こういう悲惨な環境で暮らす者がいる、とは理解していたつもりだ。
書類の上では、流民や孤児の存在を否応なく認識もしている。
だが、現実として目の当たりにすると冷静さなど吹き飛ぶ。
もう少しだけ我慢してくれ――そう思いながら、洟をすすって歩く幼子の背中を見送った。
「おい、黄色の袋を十って言ったろ! こいつぁ茶色の袋じゃねえか!」
「すっ、すんません! すぐに取り換えっ――」
荷車を牽いてきた若い男の謝罪を無視し、中年男が足蹴にしている。
従業員らしい若い方はだいぶ草臥れた古着、雇用主らしい中年は小綺麗な夏服と外見からして格差が激しい。
そんな二人の横を材木を担いで通る大男も、服はシミとツギハギだらけ。
貴族街や学園は勿論のこと、商業区でもまず見ないタイプの人々が多い。
「彼らは流民だろうか」
「おそらく、そうではないかと」
併合された旧ウィンデン領の統治は失敗続きで、多数の流民を発生させた。
治安の悪化を懸念した政府が無許可の移住を禁じたため、現在は市街への出入りを基本的に禁じられている。
なのに平然と働いているのは、この地区が半ば無法地帯となっているのか。
城壁外にはウィンデン系流民のスラムが形成されているので、そこが労働者の供給源なのだろうが……
「いやはや……何事かを成すには、中々に苦労させられそうな土地だな」
「混沌とした場所こそ、ベルさまの無茶や無理が通りやすい、とも言えます」
「ルール無用で行動する、と決めつけられている気がするのだが」
「自重なさるおつもりで?」
「そんなワケがなかろう」
堂々と答えれば、笑っているのか馬鹿にしているのか判別できない、ミナの目を細めた表情が返ってくる。
話を変えようと、目的地の方向について訊こうとするが、そこで違和感が。
ミナも察知したのか、僅かに歩調を緩めて声を掛けてきた。
「……ベルさま」
「尾けられてるな」
「はい。撒きますか、待ちますか」
「折衷案を選ぶとしよう。二本目を左だ」
早口な小声での相談を終え、少し進んだ先の左手にある路地へと駆け込む。
私たちの足音に、微かな足音が重なってくる――どうやら釣れたらしい。




