思いの果てにⅫ ~旅立ち
「ここにあれば、お前はお前のままだ。神々の力も及ばぬ。誰もお前の力を利用せぬ」
幻の中の巨大な焔が、さらに高く燃える。
「小さな火種の姿を取らずともよい。火を畳まずともよい。恐れられぬ。拒まれぬ。消されぬ。お前は、お前のまま燃えていられる」
それは、イグニスへの救いだった。
あの小さな焔の姿。乱暴な言葉。偉そうな態度。
その奥に、どれだけ自分を抑えた火があったのか、ルミナリスはまだ知らない。
~本文より
原初の焔。
世界がまだ今の形を持つ前からあった火。
山を焼き、海を蒸発させ、闇を裂いた火。
その火が、精霊の庭の幻の中では、誰も焼かずに燃えていた。
「ここにあれば」
精霊王の声が響く。
「己を封じず、世界の傷を見ずに済む」
イグニスの焔が、ぴたりと止まった。
「壊れた街を見ずに済む。焼けた者を見ずに済む。お前の火を恐れる小さき命を見ずに済む」
ルミナリスは、胸元の灼熱の石守に手を当てた。
石が温かい。
だが、その温もりは少し震えていた。
「ここにあれば、お前はお前のままだ。神々の力も及ばぬ。誰もお前の力を利用せぬ」
幻の中の巨大な焔が、さらに高く燃える。
「小さな火種の姿を取らずともよい。火を畳まずともよい。恐れられぬ。拒まれぬ。消されぬ。お前は、お前のまま燃えていられる」
それは、イグニスへの救いだった。
あの小さな焔の姿。乱暴な言葉。偉そうな態度。
その奥に、どれだけ自分を抑えた火があったのか、ルミナリスはまだ知らない。
だが、精霊王の言葉で少しだけ分かった。
イグニスは、小さくなっていた。
周囲を焼き尽くさないために、小さな命のそばにいるために。
自分の火を封じていた。
精霊王は、それを解いてよいと言っている。
世界の傷を見ずに済む場所で、誰も燃やさずに済む幻の中で。
イグニスは、即座に笑った。
荒い火の音だった。
「くだらねえ」
短い。
あまりにも早い否定だった。
ルルリアが思わず言う。
「早っ」
「考えるまでもねえ」
イグニスは精霊王の声へ吐き捨てる。
「世界の傷を見なくていい? 馬鹿言うな。傷を見ねえ火なんざ、ただの災害だ」
幻の巨大な焔が揺れる。
「力を封じなくていい? 俺様が俺様の火を畳んで何が悪い。小さい命の横に立つなら、小さくなるくらい当然だろうが」
その言葉に、ルミナリスは強い何かを感じていた。
イグニスは、そばにいるために、寄り添うために自分を小さくしていたのだ。
百万を超える夜を越えて。
そして今、自分たちの傍に居てくれる。
原初の岩が問うた、何故姿を偽るのか。
その答えが、今ここにあった。
「俺様は強い。存在が面倒なくらいに」
イグニスは言う。
「だから、加減する。だから、畳む。だから、燃やさない場所を選ぶ。そんなこともできねえ火なら、原初だろうが何だろうが、ただのくそだ」
ルルリアが、小さく呟く。
「……ちゃんと考えてる」
「当たり前だろうが!」
イグニスが怒鳴る。
「俺様を何だと思ってる!」
「偉い火」
「原初の焔だ!」
「うん。今のは、ちょっとすごかった」
「ちょっとじゃねえ!」
精霊王の声が、静かに響く。
「傷を見れば、また己の力に苛立ち、怒ることになる」
「ああ、怒る」
イグニスは即答した。
「焼けた子供を見れば、怒る。踏みにじられた街を見れば、怒る。勝手に命へ役目を押しつける奴を見れば、腹が立つ」
「怒りは、世界を焼く」
「燃やすものを分けりゃあいい」
イグニスの焔が強く燃える。
だが、広がらない。
小さな火の玉の形のまま、赤く、深く、重く燃えている。
「俺様は、見ねえ方を選ばん。傷を見て、怒って、燃やすべきじゃないものを燃やさないように、死ぬほど面倒な加減をしながら進む。それが嫌なら、最初から小さい奴らのそばになんざ来てねえ」
精霊王は、沈黙した。
墓地の花々が、少しだけ揺れる。
オルクスが静かに言う。
「精霊王よ。優しい言葉で足を止めるな」
イグニスが続ける。
「そうだ。救いの顔をした鳥籠を出すな。さっき言ったのは、おまえだろうが」
ルミナリスは、はっとした。
絶対者は、悪の顔だけで来るとは限らない。
救いの顔で来ることもある。
精霊王は、それを告げた直後に、オルクスとイグニスへ救いの形を見せた。
穏やかに過ごせる永劫。苦しまない剣。
傷を見なくていい火。力を封じなくていい場所。
それは確かに、救いだった。
しかし、二人は即座に否定した。
ルミナリスは胸を押さえた。
自分の意思で歩ける世界。
その願いは、苦しみを消す世界ではない。
選ぶ痛みを奪わない世界だ。
精霊王の声が、静かに笑った。
「フルニの子よ。永劫の安寧を拒むか」
「拒む」
オルクスが答える。
「原初の焔よ。己のままでいられる安住の地は要らぬか」
「いらねえ」
イグニスも答える。
二人の声に迷いはなかった。
「これで、真なる調和をもたらすものの預言はなった。その法はいま満ちた」
風が吹いて花吹雪が渦巻く。
「道は険しく、血と涙に溢れ往く世のその旅路は……自らの意思で選びとられた。我はその証となった」
精霊王の幻が消えていく。
ネメリアと過ごす小さな家も。
誰も焼かない巨大な焔も。
すべて、花の影へ溶けていく。
オルクスは、少しだけ目を伏せた。
その顔には痛みがある。
拒んだからといって、望まなかったことにはならない。
イグニスも、焔を低く揺らしていた。
世界の傷を見なくていいという言葉は、確かにどこかを刺したのだろう。
だが、二人とも足を止めなかった。
ルルリアは、ぼそりと言った。
「二人とも、強すぎるよ。どうしてそこまで出来るの?」
イグニスが即座に返す。
「俺様は偉くて強いからだ」
オルクスは苦笑する。
「儂は、引き返すのが下手なだけだ」
「それも強いんじゃない?」
ルルリアが言うと、オルクスは少しだけ困った顔をした。
「そういうものか」
「うん。あたしはそう思う」
精霊王の声が、最後に響いた。
「選んだのだ。ならば、行け」
その声は、もう誘惑ではなかった。
試しを終えた者へ向ける、静かな宣告だった。
「君臨するものは、救いを語る。絶対者は、苦しみを減らすと語る。真なる調和を望むなら、救いに似た囲いを見分けよ」
ルミナリスは、深く息を吸った。
「はい」
「お前たちは、安寧を否定した」
精霊王の声は、オルクスとイグニスへ向く。
「この先何があろうとも、その痛みを持ったまま、行け」
花が揺れた。
水路が流れを戻す。
墓地の青い花が静かに光る。
今度こそ、精霊王の気配は遠のいていった。
イグニスは不機嫌そうに焔を散らす。
「本当に性格が悪い王だ」
オルクスは静かに息を吐いた。
「だが、示されたものは本物だった」
「ああ」
イグニスは短く答えた。
「だから腹が立つ」
ルミナリスは二人を見た。
オルクスも、イグニスも戻ってきた。
ただ戻ったのではない。
それぞれが、留まることのできる優しい場所を見せられ、それを拒んで戻ってきてくれた。
「オルクスさん」
ルミナリスは腕の中のアシュラムを差し出した。
「お預かりしていたものです」
オルクスは剣を受け取る。
アシュラムは、元の持ち主の手に戻ると、静かに重さを収めた。
「よく預かってくれた」
「はい」
ルルリアはイグニスを見た。
「イグニスも、戻ってきたね」
「当然だ」
「世界の傷を見なくていいって言われても?」
「何度も言わせるな」
イグニスは不機嫌そうに言った。
「見なきゃ、どこを燃やさずに済ませるか分からねえだろうが」
ルルリアは少し笑った。
「やっぱり分かりやすい」
「ありがたく思え」
ルミナリスは、フィリアの墓標を見た。
ソラデアの光が昇った場所。精霊王の予言が告げられた場所。
オルクスとイグニスが、自分の道を選び直した場所。
ここで、いくつもの運命が終わり、巨大なうねりを生じる運命が始まった。
もう元には戻せない。
ルミナリスは、周囲にいる仲間たちを見た。
ルルリア。
オルクス。
イグニス。
戻れないことは、終わりではない。
進むということでもある。
「行きましょう」
ルミナリスは言った。
今度の声は、少しだけ強かった。
ルルリアが頷く。
「うん」
オルクスが剣を腰へ戻す。
「参ろう」
イグニスが前へ飛ぶ。
「よし。帰り道で変な実を食うなよ」
「まだ言うの?」
ルルリアが呆れる。
「大事だからな」
精霊の庭の花々が見送るかのように、静かに揺れた。
ルミナリスたちは、これから自分たちに訪れるものへの思いを、何より強い意志を、躰いっぱいにため込んで、前へと進む。
たとえ、どれだけ涙を流そうと、蒼穹を見上げ歩み続ける。
次回、第1部のエピローグと第2部へのプロローグです。
是非またご一読ください。
ここまで読んでいただきありがとうございます。




