思いの果てにⅩ ~預言
運命の車輪が回り始めた」
隠里の魔導文字が震える。
空中の水路が、流れを止めたまま波打った。
「もはやどのような存在にも止められない」
「車輪が動き始めるとどのようなことが起きるのですか?」
「君臨するもの、絶対者が降臨する」
「すべてを上から決めるもの。命を、名を、願いを、用途として並べるもの。従わせ、平和と呼ぶもの」
~本分より
ソラデアの光が消えたあと、フィリアの墓標に咲く青い花だけが、かすかに揺れている。
風はない。
花は、何かを見送るように、ゆっくりと揺れていた。
ルミナリスは墓標の前に膝をついたまま、空を見上げていた。
胸の奥が静かだった。
ずっとそこにあった誰かの気配だけが、もうない。
ソラデアの魂は願いだけを残して、天へ帰った。
ルミナリスは、自分の胸に手を当てる。
魔導機兵としての記録。
ヴェリットお嬢様を守れなかった後悔。
赤の宰相への憎しみ。
ソラデアの願い。
どれも消えていない。
ただ、今はそのすべてが、少しだけ違う場所にある。
誰かに背負わされたものではなく、命令として刻まれたものでもなく、まだ名前がわからない、自分の中の願いだ。
ルルリアは隣に立っていた。
何も言わず、ただ、そこにいる。
大賢者は深く頭を垂れ、隠里の魔法人たちは遠巻きに墓地を見守っていた。
水路の音が消えていた。
花の露が落ちる鐘のような音もない。
葉擦れもない。
世界が、息を止めていた。
大賢者が、ゆっくりと顔を上げる。
「……精霊王が顕現なされる」
その名が落ちた瞬間、墓地の白い花が一斉に伏せた。
青い花だけが、フィリアの墓標の前で揺れずに立っている。
ルミナリスは立ち上がった。
魔導機兵としての躯体は、疲労で崩れることを知らない。
手も足も、正確に動く。
墓地の奥にある一本の樹が、音もなく揺れた。
枝が開き、葉が伏せ、根が地中で鳴る。
空中を流れる水路が、ぴたりと止まる。
姿はないが、エーテルが漲り、強い気配と共に、言葉が放たれた。
「凍てつく金冠を越えた者たち」
声は、耳に届くものではなく、音でもなく、言葉の形を取っていた。
「白い冥界を越え、願いを内に宿し、今、同じ願いを託されて受け取った者」
イグニスの言葉が蘇る。
精霊王には気をつけろ。
オルクスの言葉も。
精霊王の言葉を、そのまま飲むな。
ルミナリスは星の羅針盤を抱きしめた。
「あなたが、精霊王ですか」
問いに答えるように、空間全体が揺れた。
「人間にはそう呼ばれている」
声が響く。
「王であり、王ではない。私は、精霊たちが見る夢の中心であり、縛られぬもの」
ルルリアが顔をしかめる。
「分かりにくい」
大賢者が青ざめた。
墓地の水面に、小さな波紋が広がる。
静かな笑いだった。
「人の子の言葉は、時に正しい」
白い花の露が一粒、ルルリアの足元へ落ちた。
「逃げる足を捨てず、届く足を得た者。あなたも、また同じ道の上にいる」
次の声は、再びルミナリスへ向けられた。
「運命の車輪が回り始めた」
隠里の魔導文字が震える。
空中の水路が、流れを止めたまま波打った。
「もはやどのような存在にも止められない」
「車輪が動き始めるとどのようなことが起きるのですか?」
「君臨するもの、絶対者が降臨する」
「すべてを上から決めるもの。命を、名を、願いを、用途として並べるもの。従わせ、平和と呼ぶもの」
その気配が、言葉の奥にあった。
「世界は、二つの形を選び始めている」
声は静かだった。
「一つは、絶対者がすべてを定める世界。争いも迷いも減るだろう。命は役目に置かれ、願いは秩序に組み込まれ、弱きものは守られる代わりに、自ら歩く足を失う」
ルミナリスの胸に、魔導機兵の記憶が疼いた。
用途を示せ。命令を示せ。主を決めよ。
役目があり、命令がある。
守るべき対象がある。迷うことなく目的に向かって物事を遂行せよ。
それは、自分の足で歩くことではない。
「もう一つは、真なる調和をもたらすものの世界」
青い花が静かに開いた。
「調和とは、すべてを同じ形にすることではない。声を消すことでもない。強きものが慈悲として秩序にはめ込むことではない」
白い花々が静かに開く。
「真なる調和とは、異なるものが異なるまま、自分の意思で立ち、他者の痛みを踏み潰さずに歩けること」
ソラデアの言葉が、ルミナリスの胸に重なった。
全てのものが、自分の意思で歩ける世界。
他者を思いやり、優しくできるものを、立たせられる世界。
「その道は、君臨よりも難しい。命令で歩かせる方が早い。恐怖で縛る方が強い。絶対者の秩序は、弱きものに安堵を与え、救う。迷わなくてよい」
ルルリアが拳を握る。
「でも、それは……」
「鳥籠にも似ているよね」
ルルリアは呟いた。
鳥籠。
綺麗で、安全で、外から見れば守られている場所。
中にいる者は、自分の足で飛べない。
「真なる調和をもたらすものは、理外の存在でなければ為すことが出来ない」
空中の水路が、ルミナリスの前で淡く光る。
「それは、生きていながら、生きておらず」
ルミナリスは息を止めた。
「魂はあって、真霊を持たざるもののみ」
ルミナリスは動かなかった。
動けなかったのではない。
その言葉が自分を指していると、ただ理解していた。
生きていながら、生きていない。
真霊を持たない。
魔導機兵。壊れたもの。
ソラデアの奇跡で再び歩き始めたもの。
神の花を宿したもの。
「私が……?」
「その可能性を持つ、唯一のもの」
「可能性……」
「予言は鎖ではない。道の上に落ちる影だ」
「では、私は必ずそうなるわけではないのですね」
「ならぬかもしれない。途中で砕けるかもしれない。絶対者に呑まれるかもしれない。己をただの兵器だと定め、自らの足を捨てるかもしれない」
ルミナリスの胸に、冷たいものが落ちる。
「調和をもたらすものが諦めれば、世界は君臨するもの、絶対者の思うがままとなる」
墓地の白い花が伏せた。
「絶対者は、世界を救うと言うだろう。争いを止めると言うだろう。弱きものを守ると言うだろう。すべてのものに役目を与え、場所を与え、意味を与えると言うだろう」
ルミナリスの腕の中で、アシュラムが重くなる。
言葉に、予言に、未来に、危ういものが絡んでいる。
「だが、その世界では、歩く足は不要となる」
声が言った。
「自ら願う心も、迷う痛みも、他者を思って立ち上がる弱さも、すべて絶対者の秩序へ置き換えられる」
ルミナリスは、ソラデアの言葉を思い出す。
全てのものが、自分の意思で歩ける世界。
「私に、そんなことができるとは思えません」
空が風が樹々が、静かに聞いている。
「私は、まだ自分が何なのかも分かっていません。魔導機兵で、壊れて、ソラデア様の願いで立って、真霊を持たないのなら……私自身の願いが、本当にあるのかも、まだ分かりません」
ルルリアが隣で、一歩前へ出た。
「あるよ」
ルミナリスはそちらを見る。
ルルリアは怖がっていた。それでも、足を引かなかった。
「さっき、ソラデアさんが言ってた。ルミィの真なる願いだって」
白い花の露が、ルルリアの肩先で光る。
「私は、難しい預言とか分からない。絶対者とか、真霊とか、正直よく分からない。でも、ルミィが色々な人を助けたのは見た。私のことも、何回も助けてくれた」
ルルリアは、胸元の巻貝に触れる。
「泣きながら、怖がりながら助けてくれた」
ルミナリスは、何も言えなかった。
水面に、静かな波紋が広がる。
白い花が一つだけ揺れた。
声は、ルミナリスへ向けられた。
「お前は、お前の思う道を進め」
その声は、予言というより、許しに近かった。
「君臨するものも、絶対者も、真なる調和をもたらすものも、すでに道の上にいる」
星の羅針盤が、強く光る。
「お前が選ばなければ、選ばぬという選択が世界を動かす。諦めれば、絶対者の世界へ傾く。進めば、痛みを抱えたまま歩くことになる」
「どちらも、怖いです」
返ってきた声は、優しくも残酷だった。
「真なる調和の道は、優しい者ほど傷つく。思いやれる者ほど迷う。立たせたい者ほど、自分が倒れる」
ルミナリスは、墓標の青い花を見る。
ソラデアの光が昇った空。
フィリアの墓。
ヴェリットお嬢様の記憶。
ルルリア。
オルクス。
イグニス。
すべてが、胸の中で繋がっていく。
まだ答えではない。
でも、方向はあった。
「私は、まだ自分が何なのか分かりません」
庭の全てが聞いている。
「真なる調和をもたらすもの、という言葉も、今は重すぎます。私がそんなものだとは、思えません」
ルルリアは黙って隣にいる。
「でも、絶対者の世界は嫌です。誰かが全てを決めて、弱いものから歩く足を奪い、守ると言って閉じ込める世界は、嫌です」
ルミナリスは胸に手を当てる。
「私は、全てのものが自分の意思で歩ける世界を、まだうまく想像できません。でも、そうであってほしいと思います」
青い花が、淡く輝いた。
「ならば、歩けばよい。強い覚悟をもって」
短い言葉だった。
「お前は、お前の思う道を進め」
その瞬間、星の羅針盤の針が動いた。
どこか、まだ見えない遠い方角へ。
「予言は告げられた」
声が、庭全体へ広がる。
「君臨するもの。絶対者。真なる調和をもたらすもの。運命の車輪は動き始めた」
白い花が閉じる。
水路が流れを取り戻す。
枝の影が薄くなる。
精霊王の気配が、少しずつほどけていく。
「忘れるな。絶対者は、救いの顔で来ることもある」
その言葉を最後に、精霊王の気配は風にほどけた。
音が戻った。
ルミナリスは、受け取った言葉の重さを、胸の中で測っていた。
ルルリアが隣で小さく息を吐く。
「……重すぎるよ。世界にって何?」
その一言が、あまりにも正直だった。
ルミナリスは頷いた。
「はい」
「今、全部考えたら倒れる」
「はい」
「だから、あとで考えよう」
ルミナリスはルルリアを見る。
ルルリアは、少しだけ笑った。
「そればっかりだけど」
「はい。あとで考えます」
大賢者は、深く息を吐いた。
「精霊王の予言……はなった。なされてしまった」
その声には、畏れがあった。
ルミナリスは今、予言のすべてを受け止めることはできなかった。
ただ、ソラデアの言葉と、精霊王の言葉だけが胸の中で重なる。
ルミナリスは、フィリアの墓標へ向き直った。
青い花が揺れている。
「私は、歩きます」
小さな声だった。
「まだ、何者か分からないままでも」
墓標は答えない。
花が一度だけ、深く頷くように揺れた。
ルミナリスは星の羅針盤を胸に抱いた。
針は、遠くを指している。
その先に何があるのかは、まだ分からない。
それでも、歩く。
命令ではなく、誰かの願いだけでもなく、自分の中に芽生えた、まだ小さな願いで。
ルミナリスは、自分が何者かではなく、何を為すのかを自分に問うていた。
ここまで読んでいただきありがとうございます。
また是非ご一読ください。
お付き合いいただき、感謝いたします。




