思いの果てにⅤ ~ アシュラムの重さ
「……儂は」
声がかすれた。
「また、見送るのか」
ネメリアの瞳が揺れた。
「はい」
その一言は、優しくも容赦なかった。
オルクスは目を閉じた。
長い時間のように見えた。
実際には、数呼吸ほどだったのかもしれない。
~本文より
ルルリアが息を呑む。
「え?」
ルミナリスも、思わず一歩前へ出た。
「どういうことですか」
ネメリアは二人へ向き直る。
「あなたたちは、自分の足で精霊王の元へ向かわなければなりません」
「私たちだけで?」
ルルリアの声が震える。
「はい」
「イグニスもいない。おじいちゃんも?」
「はい」
ネメリアの答えは変わらない。
「原初の焔は、原初の岩と向き合っています。オルクスは、私と来なければなりません」
オルクスは目を伏せた。
「精霊王の意志か」
「庭の意志です」
「同じではないのか」
「時に同じ。時に違います」
イグニスの言葉が、また胸をよぎる。
精霊王には気をつけろ。
ルミナリスはネメリアを見つめた。
「なぜ、オルクスさんは一緒に行けないのですか」
ネメリアは、少しだけ悲しそうに微笑んだ。
「オルクスがいると、あなたたちは守られてしまうからです」
「守られることは、悪いことなのですか」
「悪くありません」
ネメリアは言った。
「守りは尊いものです。しかし、精霊王の前へ行くには、自分の名と願いを、自分で抱えていなければなりません。誰かの剣の影に隠れたままでは、庭はあなたたちを見失う」
ルルリアは唇を噛んだ。
森王の泉でも、同じことを言われた。
オルクスは手を出せなかった。
ルミナリスもルルリアも、自分で冠を越えなければならなかった。
それが、まだ続く。
「でも、危ないんでしょ」
ルルリアが言う。
「危ないです」
ネメリアは否定しない。
「精霊王は優しくもあり、残酷でもあります。正しくもあり、気まぐれでもあります。人の願いを美しいと感じながら、同じ願いを根元からほどくこともあります」
「怖いことばっかり」
「だからこそ、オルクスの剣ではなく、あなたたちの足が必要なのです」
オルクスは、長く沈黙していた。
その沈黙の中で、アシュラムがまた小さく震える。
ルミナリスはオルクスを見る。
「オルクスさん」
オルクスは、ゆっくり顔を上げた。
その目には、深い迷いがあった。
守りたい者を、また自分の手から離さなければならない者の目だった。
王子。
ネメリア。
そして、今はルミナリスとルルリア。
オルクスは、何度も手放す場所へ立たされる。
「……儂は」
声がかすれた。
「また、見送るのか」
ネメリアの瞳が揺れた。
「はい」
その一言は、優しくも容赦なかった。
オルクスは目を閉じた。
長い時間のように見えた。
実際には、数呼吸ほどだったのかもしれない。
やがて、オルクスは腰の魔剣へ手を伸ばした。
アシュラム。
鞘に収まったままの魔剣を、ゆっくりと外す。
ルルリアが驚いて声を上げる。
「おじいちゃん?」
オルクスは、ルミナリスの前へ立った。
「ルミナリス」
「はい」
「これを預ける」
差し出された魔剣は、重かった。
見た目以上に。
鉄の重さだけではない。
誓い。
後悔。
呪いを断った記憶。
守れなかった者への祈り。
そういうものが、剣の中に沈んでいる。
ルミナリスは戸惑った。
「私が、アシュラムを?」
「抜く必要はない」
オルクスは言った。
「おぬしが振るう剣ではない」
「では、なぜ」
「この剣は、ネメリアの呪いを、黒の樹魔女の呪いから切り離すために得た」
ネメリアは黙って聞いていた。
その表情は、悲しみだけではなかった。
懐かしさも、痛みも、そしてわずかな安らぎもあった。
「アシュラムは、ただ斬る剣ではない。絡みつくものを断つ剣だ。呪い、契約、影、執着。すべてを斬れるわけではないが、切れ目を作ることがある」
オルクスは、ルミナリスの目を見る。
「精霊王の元へ行けば、願いや名に触れられるだろう。もし、おぬしらの足に、どうしてもほどけぬ根が絡んだなら、この剣が重くなる。その時は、逃げろ」
「斬るのではなく?」
「逃げろ」
オルクスははっきり言った。
「この剣が勝手に斬ることはない。だが、重さで知らせる。危ういものが絡んだ時、アシュラムは黙らぬ」
ルミナリスは、両手でアシュラムを受け取った。
重い。
しかし、拒まれはしなかった。
魔導機兵である自分を、剣は拒まない。
ただ、静かに重さを預けてくる。
ルルリアが不安そうに言う。
「おじいちゃん、武器なしで大丈夫なの?」
オルクスは少しだけ笑った。
「儂が行く先の相手は、剣で斬る相手ではない」
ネメリアが穏やかに言う。
「剣で斬られた相手でもありますが」
「……そうであったな」
オルクスの声に、少しだけ苦笑が混じった。
ルルリアは泣きそうな顔になった。
「戻ってくる?」
オルクスは即答しなかった。
その沈黙が、ルルリアの胸を冷やした。
だが、オルクスは逃げずに答えた。
「そうありたい」
「約束?」
オルクスは、精霊の庭の空気を思い出したように、少しだけ目を細めた。
「言葉としては、結ばぬし、結べぬ」
オルクスは静かに言った。
「だが、儂の足は戻る方を覚えているぞ」
ルルリアは唇を噛み、それから頷いた。
「分かった」
ルミナリスはアシュラムを抱えたまま、オルクスを見上げる。
「私たちは、精霊王の元へ向かいます」
「うむ」
「自分の足で」
「そうだ」
「でも、オルクスさんの剣は預かります」
「頼む」
その言葉が、ルミナリスの胸に深く入った。
預けられたのは剣ではない。
それは、とても重い。
ネメリアが手を差し出した。
白い指。
木の根のように細く、しかし折れない指。
オルクスは、その手を見た。
かつて恋人だった者。
長い時を越えて、その手がもう一度差し出されている。
オルクスは、ゆっくりとその手を取った。
その瞬間、足元から細い根が伸びた。
根はオルクスを縛らなかった。
ネメリアを飾るように、二人の周りへ円を描く。
草が伏せる。
花が閉じる。
水音が遠くなる。
ネメリアはルミナリスとルルリアを見た。
「精霊王の道は、まっすぐではありません」
「うん。なんとなくわかる」
ルルリアが小さく言う。
ネメリアは微笑んだ。
「星の羅針盤を見てください。しかし、羅針盤だけを信じすぎないでください」
「それも?」
「はい。道具は道を示します。足を動かすのは、あなたたちです」
ルミナリスは頷く。
「分かりました」
「花が問いかけたら、答えずに見てください。水が名を呼んだら、呼ばれたことを忘れてください。風が約束を持ちかけたら、笑わず、怒らず、ただ通り過ぎてください」
ルルリアは顔をしかめる。
「難しい」
「難しいです」
ネメリアはやはり否定しない。
「ですが、凍てつく金冠を越えたあなたたちなら、歩けます」
オルクスが最後に言った。
「ルルリア」
「うん」
「ルミナリスを守ろうとしすぎるな。守りたいと思った時ほど、足元を見よ」
「……分かった」
「ルミナリス」
「はい」
「ルルリアに任せることを恐れるな。すべてを自分の使命にするな」
ルミナリスは、胸を押さえた。
「はい」
「そして二人とも」
オルクスの声が低くなる。
「精霊王の言葉を、そのまま飲むな」
イグニスと同じ忠告。
ルミナリスとルルリアは、同時に頷いた。
「はい」
「分かった」
ネメリアの周囲で、葉が舞い上がる。
緑の葉。
黒い葉。
白い小さな花びら。
それらが渦を巻き、オルクスとネメリアの姿を少しずつ隠していく。
ルルリアが一歩踏み出しかける。
「おじいちゃん!」
オルクスが振り返る。
「戻ってきたら、ちゃんと説明して」
オルクスは少しだけ驚き、それから頷いた。
「分かった」
「ネメリアさんのことも」
ネメリアが微笑む。
「私のことは、彼が上手に話せるか分かりませんよ」
「そこも含めて聞く」
「では、困らせてあげてください」
オルクスは苦い顔をした。
「本人の前で言うことではない」
「昔から、困った顔が似合っていました」
その言葉に、オルクスは返せなかった。
葉の渦が濃くなる。
ネメリアの声が、最後に届く。
「自分の足で、精霊王の元へ」
オルクスの声も続いた。
「アシュラムを頼む」
葉が舞い上がり、光が弾け、二人の姿は消えた。
残されたのは、細い森の道。
星の羅針盤。
ルミナリスの腕の中の魔剣アシュラム。
そして、ルルリアの浅い呼吸だけだった。
ルルリアは、しばらく黙っていた。
それから、小さく言う。
「……本当に二人だけになった」
ルミナリスはアシュラムを抱きしめる。
剣は重い。
ルミナリスは星の羅針盤を見た。
針は、庭の奥を指している。
そこに精霊王がいる。
イグニスはいない。
オルクスもいない。
それでも、道はある。
「行きましょう」
ルミナリスは言った。
ルルリアは深く息を吸った。
次回、2人で進む先の精霊の庭を描きます。
ここまで読んでいただきありがとうございます。
また是非ご一読ください。




